誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。(ヨハネの福音書7章37節〜39節)
今年は、激暑であったと言われます。私たちは、暑ければ暑いほど喉が渇きます。暑い日に冷たいものが喉を通る感覚は気持ちの良いもので す。しかし、また渇きます。そして、生物的生命を維持するために水を摂取します。この聖書の言葉に「心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる」と あります。つまり、自分の心にあふれるばかりか、あふれて、人々にまで流れて行くというのです。
何という豊かな生命であり人生ではありませんか。イエス・キリストは私たちを、そのような人生へと招いておられます。この言葉の始めに「誰でも」と言っています。一人残らずです。しかし、この言葉の中には二つの条件が書いてあります。
第一は、「渇いているなら」とありますように魂が「渇いている」ということです。旧約聖書の詩篇の詩人は鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます(詩篇42篇1節)と 歌っています。私たちの魂は渇いているでしょうか。現代人は、「自分が渇いていることにさえ気がつかない」と言われます。これは、こまった現象です。渇き というのは「私にはない」という欠乏の自覚だと思います。私には本当に「愛がない」「喜びがない」「生きる使命感がない」「平安がない」「きよさも正しさ もない」という徹底した欠乏感です。また、「私には必要だ」という必要の意識です。「私には金もあり、教育も、地位も、家も、学歴もあります。しかし、私 には魂の救いがない。罪が赦され滅びから救われることが必要だ。本当の生命、本当の赦し、本当の愛が必要だ」と心から願い求めることです。私も罪人だけれ ども、あの人よりもましだと言っている間は、必要の意識は十分とは言えません。そして、「それがほしい」と熱心に(激しく)求める心が必要です。イエス・ キリストは求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。(マタイの福音書7章7節)と言われました。激しく求める心、それが飢え渇く心です。
第二は、「信仰」です。この言葉には「私を信じる者は」とあります。イエス・キリストは「信仰」を求めておられます。信じるということ を、イエス・キリストは「来る」という言葉と「飲む」という言葉であらわしています。信じるということは、単に頭の中での操作、心理的な操作であると考え る方がおられます。信じることは、心の切り換え、頭の切り換えであると考えるのです。ひどいのになると「鰯の頭も信心から」と言います。このように、信じ 込むという心理的作用が人に安心をもたらし、救いをもたらすものだというのです。ところが、聖書の教え、イエス・キリストの教えはまったく違うのです。信 仰とは、心の納得や色々な深い考えの末、意志の決定に基づいて、飛び込む、行動する、ということなのです。この「わたしのもとに来て飲みなさい」という言 葉を信じて「飲む」という行動が必要なのです。
イエス・キリストが与える生命は豊かです。あなたも、この生命に生きたいと思いませんか。この生命に2001年間、教会の人々は生かされ続けたのです。