布にくるんで、飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。(ルカによる福音書2章7節)

今年も早いもので12月です。この言葉を言うようになったらもう歳でしょうか。今年は12月2日(日)からアドベントに入ります。アド ベントとは「待望節」と言ってキリストの誕生を待ち望む期間のことです。この期間を過ぎてクリスマスを迎えるのです。クリスマスの季節になりますと、街は イルミネーションできらびやかになります。どこに行ってもクリスマス・ソングが流れています。しかし、本来、クリスマスとは何なのでしょうか。

クリスマスの「クリス」は「キリスト」、「マス」は「礼拝」という意味です。ですから、「クリスマス」とは「キリストを礼拝する日」と いうことなのです。聖書を見てみると、羊飼いたちは天使たちの歌声を聴いてベツレヘムに急行し、飼い葉桶に寝かしてある幼子にまみえ礼拝しました。博士た ちは光輝く星に導かれて東よりやって来ました。そして、飼い葉桶に寝かしてある幼子にまみえ「黄金」「乳香」「没薬」を献げ礼拝しました。

人類最初のクリスマスは、文字通りすべてが「礼拝」でした。しかも、ロマンチックなものではなく、大変みじめで、哀れなものだったので す。臨月のマリヤがロバの背中に乗り、ほこりの多いユダヤの石ころ道を旅しているのです。やっとたどり着いたベツレヘムの町は人口調査のために旅をして来 た人々でごった返し、宿はどこも満員でした。イエス様を身籠もっているマリヤには清潔で静かな部屋が必要でした。何といっても、ヨセフとマリヤにとって始 めてのお産なのですから・・・。しかし、どこも宿がありません。満室なのです。

結局、何の設備も準備もない暗い馬小屋で主イエスはお生まれになりました。全くひどい話です。今の時代なら人権侵害と叫ぶ人々が起こり そうです。動物扱いなのですから・・・。「王の王・主の主」キリスト・イエスの誕生に、たったひとつの部屋もなかったというのは、人間の罪の現実をよくあ らわしています。

聖書には「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と記述されています。余地がなかったのはベツレヘムの宿屋だけではありません。私たちの 生活も魂の中もまた、先客でいっぱいなのです。リストラ時代、就職活動で忙しい、子どもの世話で忙しい、もっと生活に余裕が出来たらなんとかしたいと思い ます。また、ある人は友人付き合いが忙しくてそんな余裕はありません。あちらこちらから弁解の言葉が聞こえて来るようです。そうです。私たちは、今も昔も 他のものは受け入れる部屋を持っているのです。しかし、イエスキリストを受け入れる部屋を持たないのです。

求めよ、そうすれば与えられます。捜せ、そうすれば見いだします。門をたたきなさい。そうすれば開かれます。

という聖書の言葉を人々は知っています。私たちは、「求め」「捜し」「たたく」ということをしないか、あるいはどこかで止めてしまいま す。そして、神様(イエス)は何もしてくれないと不平を言いだします。しかし本当はそうではないのです。「王の王、主の主」救い主としてお生まれになった イエス・キリストが私たちを求めて、私たちの心の扉を外から叩き続けているのです。

見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。誰でも私の声を聞いて戸を開けるなら、私は、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする(ヨハネの黙示録3章20節)

とあります。イエスは神御自身でありながら私たちと同じ肉体をとって、私たちと同じ世界に来られ、心の戸の扉をたたき続けているのです。「彼とともに食事をし、彼も私とともに食事をする」とは、「私はあなたの人生を保証します」ということなのです。

イエス・キリストは今もあなたの心の戸をノックしています。そのノックに答えて心の扉を開きませんか。あなたの人生はイエス・キリストによって保証されるのです。