見よ。私は新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなた方は、それを知らないのか。 確かに、私は荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ書43章19節)

2002年、新しい年の扉が開きました。新しい年を、期待や不安を心に抱きながら迎えた方は少なくないのではないでしょうか。リストラ 時代、構造改革、テロの恐怖、経済危機と、どこを見ても明るい話がありません。ある情報によると学校の一クラスの中にリストラされたお父さんは少なくとも 一人はいるというのです。高校などは、学校を辞めお父さんの代わりに仕事をしなければならない生徒が増加しているというではありませんか。また、御老人の 自殺も増えています。

この聖書の言葉は、イスラエルの民がバビロンという国に補囚(奴隷)の民として連れて行かれ、やがて神様がバビロンの国から解放して帰 還させてくださる という約束の言葉です。イスラエルの人々は、祖国や故郷を思いながら70年間、敵国で奴隷として生活していたのです。毎年、毎年、帰還の期待と今年どうな るのか、という不安を抱きながら生活していました。イスラエルの民にとってバビロンでの生活は荒野であり荒地です。

私たちの社会はどうでしょうか。荒野ではないでしょうか。荒野の中でそれぞれの人生は荒地になっていないでしょうか。野原や川が荒れ乾 いています。そして、殺伐としています。あなたの心や魂には川が流れていますか。人を愛せない自分。人を赦せない自分。憎しみで一杯な自分。空虚な心で一 杯な自分。孤独と不安で一杯な自分。あなたは、今、どんな自分を生きているでしょうか。

この聖書の言葉に聞いてください。ここに、「見よ。私は新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなた方は、それを知らな いのか。」といいます。神様は、「新しい事をする」とおっしゃっているのです。新しくなる約束がいわれています。聖書の中に、「新しくなる」約束があちら こちらに沢山あります。使徒パウロの代表的な言葉に「誰でも、キリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」(コリント人への第二の手紙5章17節)があります。そうです、「誰でもキリストのうちにあるなら」新しくなるのです。この「キリストのうちにあるなら」とはどういう意味でしょうか。

私たちは、自分の人生を自分の力や能力で切り開いて行こう、変えて行こうとします。それは、自分のうちにある生き方です。自分のうちに ある生き方は、一見自由に感じます。しかし、自分のうちにある歩みは、他者や組織によって破壊されるのです。その典型的な姿はリストラではないでしょう か。そして、自分のうちにある生き方の中で一番どうにもならないのは、「自分自身」なのです。

けれども「キリストのうちにある」とは、キリストの十字架の罪の赦しと愛の中にあるということです。乾ききった喜びのない人生、実りの ない非生産的な人生に、荒野、荒地から道が設けられ、水が流れるのです。それは、潤いのある人生です。この道は、救いの道です。水は、愛の水、命の水で す。このような水が溢れ流れだすのです。

イエス・キリストの言葉を聞いてください。
誰でも乾いているなら、私のもとに来て飲みなさい。私を信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水が流れ出るようになる(ヨハネのよる福音書7章37節〜38節)

と約束して下さっています。