主を畏れることは知識の初めである。(箴言1章7節)
近年よく「自己実現」という言葉を聞きます。この言葉は、心理学者であるマズローが使ったものです。大変魅力のある言葉です。この言葉 に人々は魅了されます。自分の願ったように、思ったように物事が実現することを欲する願望のようなものです。マズローは、自己実現のためにはまず 一次的欲求が満たされることが大切であると言います。 この一次的欲求とは、生理的欲求とも言います。次に、二次的欲求が満たされることが大切だと言います。この二次的欲求は社会的欲求とも言います。社会的欲 求には段階的なものがあって、一つ一つ階段を昇るように自己実現に向かうというのです。
このような理解や考え方にはちょっと違和感があります。その第一は、自分の力に依存した価値観であることです。人間はそんなに強くはあ りません。私たちの力などというものは小さく限界があるものです。その限界に気がついた者は幸いです。第二は、自己実現という大義名分の下に人間がますま す自己中心的になって行くことです。自分の自己実現のために人が傷つき、倒れても平気な冷酷な人間を生産してしまうのです。
今起こっている政治の世界の問題。政官財の癒着の問題は今に始まったことではありません。しかし、田中真紀子前外務大臣更迭問題の背後 に見え隠れする人間模様は何でしょうか。それぞれの代議士の自己実現を阻む人々を邪魔者にした姿です。このことによって傷ついた人々を思いやる言葉が一言 も出て来ません。出てくるのは、責任転嫁の醜い人間の姿です。しかし、このような姿こそ、私たちの姿でもあるのです。「自分さえよければそれで、人がどう なってもかまわない」こんな人間がますます多くなってきているのです。欲望と衝動と自分のことだけで明け暮れる人々が増えてきています。人生の中に畏れる ものがなくなっているのです。
現代社会の病む姿はここにあるのではないでしょうか。愛が冷え、孤独感と孤立感が蔓延し、陰で涙を流している人々が少なくないのです。 神さえも畏れない人々が少なくなくなりました。私たちが本当に畏れるべき者は、天地を創造し私たちを創造した神です。全てを支配する神です。この方に従っ て生きる生涯は幸いな人生です。神様がおいでになることを知らないで生きる人生は危険です。しかし、神を畏れる生活を知ることは何と幸いなことでしょう。