望みのあるうちに、自分の子を懲らしめよ。しかし、殺す気を起こしてはならない。(箴言19章18節)
私達の教会では、昨年の10月にチューリップの球根を100本植えました。そして、3月に入ると桜の満開の便りと共に色とりどりの チューリップが咲き乱れました。教会員はもちろんですが、近所の方や通行人の方々が足を止めて楽しんで下さいました。ところがその後、一週間ごとに、 チューリップが1本、2本と根本から折られて、なくなっているのです。5本のチューリップが盗難にあいました。犯人はきっと、盗んだ1本のチューリップを 花瓶に入れ、観賞し、枯れてしまうとまた、盗みに来るということを繰り返したのでしょう。しつけはどうなっているのだ! 道徳観や倫理観はないのか? と 叫びたくなるような感じです。
今月の神の言葉の中に「殺す気を起こしてはならない」とあります。厳しい、驚くような言葉です。
この言葉の意味は、八つ当たり、憎しみ、やけっぱちなどのヒステリー的感情で子供を叱ってはいけないということでしょう。同じ箴言の13章24節には「む ちを控える者は、その子を憎む者である」と記述されています。子供は、望みがある幼いうちに懲らしめるというのが聖書の一貫した教えです。ところが、現代 社会は、子供を懲らしめない親が多くなりました。
先日、テレビ番組で「子供を怒れない(父)親」というテーマで特集を組んでいました。興味をもって見ていたのですが、その理由は「子供 を怒ると逆ギレされる」という回答が殆どでした。父親というのは子供にとって「社会の窓」です。子供の社会規範や道徳観・倫理観を育てていく存在です。何 と驚くべきは、社会規範の破壊が家庭の中で起こっているということです。なぜ、このようなことが起こるのでしょうか。
第一に、子供に対する責任を自覚していないことです。神は、資格もない私を愛し生かし、親として任命し、こんな資格もない者に、子供を 愛する愛を与えて下さったのではありませんか。あなたほど、あなたの子供を叱る責任を負わされている人は、他にいないのです。第二に、子供によく思われた いという助平根性があることです。ですから、子供に嫌われると思うことを避けてしますのです。第三に、子供じみた「かわいそう」という気持ちに押されてい ることです。そこには、猫かわいがりな自己中心の愛しかありません。生死をさまよっている患者に「かわいそう」というセンチメンタルは通用しません。命を 助けるためにしなければならないことがあるのです。第四に、根本的な価値が何であるかということと、永遠のことが分かっていないことです。神とか絶対とい うことを分かっていないのです。
どうぞ、人々に愛される器を育てようではありませんか。また、善悪の分かる子供を育てようではありませんか。