誰でも人の先に立ちたいと思うなら、皆のしんがりとなり、皆に仕える者になりなさい。(マルコの福音書9章35節)

人類が始まって以来、「幸せと何か?」という問いに いつの時代も人々は悩み、苦しみながら答えをだそうと懸命に生きてきました。ある 人は、「幸せとは欲望の満足」と言います。また、ある人は社会的名誉や地位であると言います。どれをとっても、自己中心的、自己満足的な臭いがしてなりま せん。

イエス様のお弟子さんたちには12名の人々がおりました。彼らは、イエス様と3年間、生活を共にしたのですが、しかし、彼らの一番の関 心事はイエス様から自分を生かし、人を生かす言葉を聞くことではありませんでした。また、永遠の命でもありませんでした。彼らの一番の関心事は、「誰がこ の中で一番偉いのか」ということだったのです。

幸せについて現代人は、追求していくもの、探し当てるもの、などというような概念規定を持っています。ですから、幸せは「自分の外にあ る」という認識をもっているのではないでしょうか。それは、何か宝物を探し当てるかのような感覚のような気がします。ある一人の神学者は、「現代人は幸福 を追求するあまりに幸福の奴隷となってしまった」と言いました。この言葉は現代人を見事に言い当てている言葉だと思いますが、いかがでしょうか。

ところが、イエス様は「誰がこの中で一番偉いのか」と論じ合い、議論し合っている弟子たちに、「誰でも、人の先に立ちたいと思うなら、 皆のしんがりとなり、皆に仕える者となりなさい」と言われました。この言葉の中で注意していただきたいのは「仕える」ということです。私たちは、「幸せ」 という言葉を「幸」という字をあてて読んでいます。ところが、かつて日本人は「仕合」と書いて「しあわせ」と読んだのです。

日本人は、幸せはどこにあるか?と問われた時、「仕え合う関係の中に見ていた」ということです。イエス様が言われた「仕える」とは、こ のような意味なのです。ですから、しあわせは、自分の外側ではなく内側に根拠を持つのです。互いに仕え合う関係の中に幸せを見出し、味わう世界が生まれて くるのです。この関係は、どんなに社会的な名誉や地位を得ても、億万長者になっても生まれてこない世界です。

河野進さんという一人のクリスチャンが次のような詩をつくりました。

ひとりに仕えられて不満である
10人、100人に仕えられてさらに不満であり
千人、万人に仕えられていよいよ不満であり
ついに人生は不満である

ひとりに仕えて感謝が生まれる
10人、100人に仕えて感謝であり
千人、万人に仕えて感謝であり
ついに、人生は感謝である

 

私たちは、いつのまにか人に仕えさせることが得意になっていきます。しかし、そうではない。仕えるのです。仕えるところに感謝が生まれ ます。感謝が生まれてくるところには幸いな豊かさが溢れるのではないでしょうか。そして、仕え合うところに自分と他者が同じに幸せを味わうことができるの です。