何が原因で、あなたがたの間に 戦いや争いがあるのでしょうか。 あなたがたの体の中で戦う欲望が
原因ではありませんか。 (ヤコブの手紙4章1節)
「神は愛であるならばなぜ戦争があるのか」という質問をよく受けます。世界に目を向けてみましょう。最近、世界情勢はあまり良いとは言 えません。アメリカによるイラク攻撃がいつ起こるか不安な国際情勢です。また、北朝鮮は相変わらず他国や多くの人々を脅かし恫喝しています。この二つの国 を見ていると気がつくことがあります。その第一は、自分達の価値観に同意しない者は、どんなことがあっても排除するということ。第二は、自分たちの義を通 そうとしていること。第三は、力や権力で人々を支配しようとしていること。この三つが共通点として見えてくるのではないでしょうか。
私たちの生活や人間関係の中に視点を変えてみましょう。すると、どうでしょうか。私たちも上記の国々と同じように、自分の意見を言う 者、価値観が合わない者、肌の合わない者を排除し否定しているのはないでしょうか。人は、人を生かし愛することよりも、人をいかに従わせるかを一生懸命に 考えているのではないでしょうか。また、それがリーダーシップであると理解しているきらいががありませんか。この様な人間関係の中に生じることは、憎しみ や裏切りではないでしょうか。偉くなりたい、有名になりたい、人々を支配したいなどという欲望が争いを起こすのです。
2月14日(木)の朝日新聞の夕刊にローマ法王が「平和を望まない人はいない」と発言したという記事がありました。しかし、本当にそう でしょうか。この「平和」をどの様に定義し理解するかによって解釈に違いがありますが、「私の、俺の言うことに従えば平和を保証しよう」というのが今の世 界の現実の姿ではないでしょうか。醜い罪の姿です。
このような姿は国と国の関係だけが問題なのではありません。私たちひとり一人の人間関係の中にも同じ構造があります。お互いの義を通そ うとするところに争いが起こるのです。人間の高慢な姿です。聖書はヤコブ4章1節で、争い、戦争の原因は「あなたがたの体の中で戦う欲望である」と言って います。さらにヤコブは言います。「あなたがたは、欲しがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです」(ヤコブの手紙4章2節)と・・・。これが、罪なのです。罪はエゴとも言います。エゴとは自己中心ということです。自己中心の姿は、自分が・・・自分が・・・という姿です。
この罪のために、イエス・キリストが十字架上に命を投げ出して、肉を裂き血を流したのです。このイエス・キリストを信じる者は罪を赦され神の子とされるのです。
御子イエスの血はすべての罪から私たちを清めます。もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いてお り、 真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてく ださいます。(ヨハネの手紙第一1章7節b〜9節)