この人による以外に救いはない。私たちを救いうる名は、これを別にしては、天下の誰にも与えられていないからである。(使徒の働き4章12節)

この聖書の言は、初代のキリスト教会の指導者であったペテロという人が、当時のユダヤの最高議会で証言した有名な言です。この言を読む あなたは、「何と排他的で唯我独尊的なんだろう、我田引水もいいところだ」と感じるかもしれません。「すべてが相対化してしまった時代にあって何と愚かな ことを言っているのか」と思われるかもしれません。しかし、この言にはそれだけの理由があるのです。

第一の理由は、神が遣わされた救い主は「この人」であるイエス・キリスト以外にない、と言うことです。よくキリスト教の教祖はイエス=キリストである、と 言う方がおられます。しかし、違うのです。イエス=キリストは「教祖」ではないのです。他の「教祖」と言われる人々とキリストの決定的な違いは、この地上 に生を受けられる何千年も前から、その生まれる時、場所から始まって、その生涯、死の遂げ方、そして復活に至るまで、ことごとく預言されていたということ です。いつどこかで、悟りを開いて神になったとか、教祖になったとかいうのとは、根本的に違うのです。キリスト以外に、誰かただ一人でも、その人が地上に 存在する前から、その人について預言予告されていた、と言う人物があったでしょうか。なぜ、キリストについてだけそれがあったのでしょうか。それは、神が 人間を救うためにこの方を遣わそうとして、長い間準備し、計画しておられたからに他なりません。従って、神がその方によってのみ、人々を救おうとされるの は当然です。

第二の理由は、人間の罪のために身代わりとなって死なれた方は、キリスト以外にないからです。このような話があります。ある人が泥沼に誤って落ちてしまい ました。必死にもがけばもがくほど体が沈んでいきます。泥沼に落ち込んだその人は、必死でもがいて助けを求めています。そこに立派な人が通りかかります。 彼は、沈みかけているその人に人生の道を説きながら「君子危うきに近寄らず」と去って行きました。次に、また一人の慈悲深い顔をした紳士が通ります。彼 は、「前世の因果です。あきらめなさい。念仏を唱えて成仏するように」と言って去って行きました。泥沼の中のいる人は、どんどん沈み、ついに首と顔以外は 泥の中に沈んでしまいました。いよいよ助けを必死で求めています。そこに、さらに一人の紳士がやって来ました。泥沼の中の人はどうせもう駄目だろう、と 思っていましたが、なんとその紳士は泥沼の中に飛び込んでその人を助けたのです。そして、飛び込んだ本人は、ブクブクと沈んでしまいました。

この泥沼の中に沈んでいった人こそイエス・キリストです。イエス・キリストが十字架について死んで下さったということは、このようなことなのです。イエ ス・キリストは人間の罪の泥沼の中に飛び込んで私とあなたを救いだして下さったのです。そしてこの神の愛は「教え」や「教理」ではありません。歴史的事実 なのです。私たちの罪のために聖い方が命を投げ出して愛を見せて下さったのです。他にこのような方が歴史の中に存在したでしょうか。

第三の理由は、キリストは死から甦られた命そのものであるということです。復活によってすべてに勝利をされたのです。死から甦りすべてに勝利されたお方は他にいるでしょうか。

人類の歴史の中で教祖と言われる人々には墓があります。そこには、骨があります。しかし、イエス・キリストの墓は空です。そして、骨は人類には残されていません。甦ったからです。墓の中に祭られているようでは、神とは言えません。まして、救い主と言うことはできません。

イエス・キリストは甦って今も生きておられます。私たちの生活の中のただ中に、一緒にいて下さり、救って下さるのです。このお方以外に誰か、予告どおりに甦って、ご自分を示された方が、今までにあったでしょうか。

この方以外に救いはない、ということがおわかりになったでしょうか。