創世記 26章:2~11節

ヨセフの生涯は、主イエスの生涯の「型」であると言われます。
聖書自体に「型」と定義されているわけではありませんが、
共通点が多くあるため、「型」として解釈されています。

その最も大きな共通点とは、二人とも辱めを受け、
その辱めが極みに達した時に高い所に引き上げられた、という点です。
最も低い所に落とされた後に、最も高い所に引き上げられる。
この点が共通しているのです。
故にヨセフに起こったことを学ぶのは、主イエスに起こったことを
学ぶことに等しく、そして、主イエスに起こったことは
私たち一人一人に起こったこと、或いは、これから起こることを
学ぶのに等しいのです。
その意味で、ヨセフの物語は私たち自身の物語でもあるのです。

ヨセフは正直で純粋な性格の持ち主でした。
ある意味では、正直すぎる、純粋すぎる、というほどの人格の持ち主でした。
しかし、少なくともまだこの頃は賢くはありませんでした。
聖書には「鳩のように素直で、蛇のように賢くあれ」という教えがあります。
ヨセフは鳩のように素直ではありましたが、
蛇のような賢さはまだ身につけてはいませんでした。
後に苦難を経て、賢さも身につけましたが、まだこの頃は
ただただ純真な若者にすぎなかったのです。

ヨセフは、その純粋さ故に、父であるヤコブに、
兄たちの真実を語り、その為に迫害を受けました。
主イエスも、人間の真実を語ったために、
憎まれて十字架で殺されました。

素直さは時として迫害を招きますが、その素直さを
神様は求めておられ、最終的にはそれを大いに祝福します。
私たちもその素直さを身につけていきたいものです。

ところで、ヨセフは二つの夢を見ました。
それはヨセフがこれから与えられる苦難を、忍耐と希望をもって
乗り越えて歩むための保証でありました。
主イエスは夢は見ませんでしたが、神から与えられた
ビジョンを明確に持って生きた方でした。
神様から与えられたビジョンは、その人の人生を揺るがないものにします。

現代を生きる私たちに、必ずしも神は、ヨセフのように
「夢」という形ではビジョンを与えません。
しかし、私たちにはヨセフの時代にはなかった聖書が与えられています。
この聖書の言からビジョンを得て、忍耐と希望をもって
苦難を乗り越えることこそ、クリスチャンに与えられた人生の保証であり、
人生の土台であるのです。

ヨセフはこの夢によって人生を支えられましたが、
私たちの人生は聖書によって支えられます。
日々、聖書から少しずつでもビジョンを与えられつつ生きてゆきたいものです。