10月16日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約10月16日「いのちの型」
ローマ5:12~21

パウロは12節で「そういうわけで」と語っています。5章自体は「ですから」と始まります。つまりパウロは4章の内容を前提に、義と認められた人は神と平和 を持つ者とされた、と言っているのです。そればかりでなく、主イエスの十字架の死によって、私たちが神の怒りから救われたことを多いに喜び、誇っていま す。だからパウロは12節で「そういうわけで」と言うことによって、キリストにある希望が確かなものだということを語ろうとしてるのです。

人間の共通因数は「生」と「死」です。人間にとって、生は喜びであり、死は悲しみです。そうすると、人間の人生は喜びに始まり、悲しみに終わるということに なります。なんと人生の空しいことでしょう。しかしパウロはこの、死の問題について、「そういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪に よって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・・それというのも全人類が罪を犯したからです。」と言います。また「ところが死は、アダム からモーセの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえ支配しました。アダムは来たるべき方のひな形です」と語ります。人間の内にアダム の不従順によって罪が入り、その結果、死が全世界におよんだというのです。14節で使われている「型」は英語では「スタンプ」であり、ギリシャ語では 「テュポス」で「打つ」という意味の言葉です。私たちの生活で使う、印鑑のイメージです。印鑑を書類に押すと、何枚も同じものができあがります。これが 「テュポス」です。トマスが復活の主イエスに「釘の跡に指を差し入れてみなければ信じない」と言った「跡」にも同じ言葉が使われています。この十字架の跡 こそが「命の型」です。

第一のアダムによって罪と死が全人類に入った。しかし、第二のアダムである主イエスが到来したことによって、義と命が全人類に入ったのであると、パウロは語ります。キリスト者とは、主イエスの十字架の釘のあとに結び合わされた者なのです。
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ボージョレーヌーボーが解禁になりました。今年ももうそんな季節です。せっかくだから教会の聖餐式のワインをボージョレーヌーボーにすればいいのに、とか思います。聖餐式ではほんのちょっぴりしか飲まないので味なんか分からないでしょうけど。

それではまたいずれ。主にありて。