10月9日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約10月9日「パウロの自己認識」
ローマ5:6~11

今 日のテーマは「パウロが自分自身をどのように理解していたか」ということです。私たちにとって「自分を知る」ということは大切なことです。どんなに他者を 知ろうと願っても、自分を知ることなしに、それはなし得ないものです。なぜなら自己理解と他者理解は同質で同根であるからです。

パウロは この5章において心理学的な自己理解について語っているわけではありません。神様との関係性の中における、霊的な自己理解について語っているのです。パウ ロは6節では「まだ弱かったとき」、8節では「私たちがまだ罪人であったとき」、10節では「敵であった」と、現在(9節)から過去を振り返ってきます。 パウロは自分自身が主イエスと出会い、義なる者とされる前、強さを求めて生きていました。しかし、神と出会って、強さを求める生き方こそ弱さであることに 気付いたのです。

私たちはこの弱さという言葉から何を連想するでしょうか。一般的には、情けない、落ち込みやすい、自分に甘い、自分の意 見を持たない、詰めが甘い、意志が弱い、何をやっても長続きしない、などでしょうか。人はどうしても弱さを否定的に捉え、強さを求めてしまいがちです。パ ウロはIIコリント12:9~10で、「弱さ」という言葉を三回も使っています。そして主が語られた言として「私の恵みはあなたに十分である。というの は、私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と切り返しています。この三回、という数には意味があるようです。主イエスはゲッセマネの祈りで三度 も「杯を取り除いて下さい」と父なる神に願いましたし、ペテロは三度、主イエスを拒みました。そのペテロに主イエスは「私を愛するか」と三度問いました。

パウロは三度「肉体の棘」を取り除いて下さいと祈りましたが取り除かれませんでした。それは祈りが聴かれなかったのではなく、むしろ取り除かれなかったことによって、祈りが聴かれたのです。
その理由はパウロが高ぶらないためです。この「三」という数字には、神様の計画が隠れているということではないでしょうか。私たちの様々な棘は、人生と自分の一部であることを受容することが私たちにとって肝要なことです。
弱さにこそ真の強さが生じる。これがパウロの自己認識でありました。
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木枯らし一号が今日吹いたそうです。寒くなりますね、いよいよ冬が来ます。皆様、風邪など召されませんように。しかし、風邪は風邪で、休みながら聖書を読めたりだとか、悪いことばかりではありません。そんなところにも「弱さにある恵み」はあるのかも知れませんね。

それではまたいずれ。主にありて。