10月2日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約10月2日「失望のない希望」
ローマ5:3~5

人 間は希望が無ければ生きることのできない存在だといわれます。ナチスによるアウシュビッツ収容所では、希望を失った人から亡くなっていったそうです。生き 残った人々は希望を最後まで失わなかった人たちでした。現代社会は教育界、医療界、その他様々な分野において、研修やセミナーなどで希望を求めます。しか し、こういった世の求める希望は「自己実現」と表現されるもので、これは本来の希望とは異なるものです。「自己実現」という言葉はマズローというアメリカ の心理学者の用いた言葉で、欲求の満足を指します。私はこの自己実現の理解に違和感を感じます。なぜならそれが偶像に結びつくからです。偶像は「欲望の投 影」のことです。私たちに求められているのは神と教会に仕える生き方です。

クリスチャンは自己実現のために生きるのではありません。私た ちの日常には楽しいことも多々ありますが、苦難や悲しみで溢れています。そんな中で希望を持ち続けることはたやすいことではありません。しかしパウロは 「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは患難が忍耐を生み出し・・・」と言っています。「患難さえも喜ぶ」とパウロは言っているのです。私 たちはなかなか患難を喜ぶことはできません。人間的には不可能なことです。もし私たちが日常の中で「主よ、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったら、少し頭 がおかしいのではないかと思われるかも知れません。しかし、ここでパウロの言っている「患難」は一般的な意味での患難や苦しみではありません。この「患 難」は信仰告白から生まれてくる諸々の苦しみのことを指しています。それはつまり、私たちがイエスキリストを主と告白するが故に受ける苦しみや困難のこと です。

「忍耐」とは「重い荷の下で踏みとどまる」という意味です。何かを受動的に耐える、というよりはもっと能動的な、積極的な生き方を 指します。4節の「練られた」は金属を精錬するところから産まれた言葉です。採れた金を純粋な金にするために熱い火で熱すると、不純物と純粋な金が分離し ますが、これと同じように信仰から不純物が分離して、私たちがより聖なる者となるということです。これが「練られた品性」と表現されるところのものです。 この品性とは徳目のことではありません。「神様が承認した」ということです。私たちは苦難を通して、忍耐を学び練られ聖化され、主とお会いする希望を生き ることができるのです。
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月9の枠で「カインとアベル」 というドラマが始まりましたね。興味はあるのですが月曜の9時は家にいないことが多いので観ていません。初回の視聴率は8.8%と、歴代月9の最低を記録したそうです。クリスチャンがいくら興味を持っても、この国には1%に満たない人数ですから視聴率には影響しないでしょうね。あの有名な仏教国のチベット ですら3%のクリスチャンがいるというのに。