9月25日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約9月25日「何を誇りに生きるか」
ローマ5:1~2
ある日、ポール=トゥルニエのところに、一人の「人生の成功者」とされる人がやってきました。彼はトゥルニエに「私は人生に失敗した。なぜなら努力を重ねる 仕事では成功を収めたが、全存在的・人格的に円満になることには失敗したから」と語りました。人間は人が羨むような成功を収めたとしても、人格的な成熟に 失敗したら空しい存在である、という話です。
人間は誇りがないと生きていけないと言われます。この「誇り」は日本の辞書では「いばる、大 言を吐いていばる、名誉」と説明しています。オックスフォード辞書では「自慢するもの(結果として相手に見せびらかすもの)、価値観や考え方の優劣を競う こと(勝ち負けを争う道具)、自分を守るもの、相手を攻撃するもの、自信過剰を表すもの」と説明されています。どちらの辞書の意味をとっても「誇り」は不 健康なものだということです。
預言者イザヤは「いと高く崇められ、永遠の住まいに住み、その名を聖と唱えられる方が、こう仰せられる『私 は、高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである』(イザヤ 57:15)」と言いました。人の健全な誇りとは、心砕かれた者と共に住み、生かして下さる聖なる神を知っていることだ、ということです。
パ ウロは、クリスチャンは過去において「信仰によって義と認められた者」だと言います。罪人である者が主イエスの十字架の購いによって罪を赦され正しい者と 宣言されたことに、パウロは感謝しています。いくつかの訳を見ると「神との間に(新共同訳)」「神と和睦したるなり(ラゲ訳)」「神との平和をエンジョイ しよう(バークレー聖書)」「神との平和を続けていきましょう(New English Bible)」と書かれています。パウロは神と和解した私たちは神を喜ぶ者にされていると言うのです。そして未来においては「神の栄光を待ち望んでいる」 と言います。私たちの誇りは過去、現在、未来に渡って、朽ちることのない恵みであり、それこそが健全な誇りなのです。
失敗、敗北、挫折、 離別、そういった世の出来事によって失われてしまう誇り、人が自分で守らなければならないような誇りは健全な誇りではなく、健全な誇りは永遠の神によって 与えられている故に、自分で守る必要もなく、また何があろうと決して永遠に失われることがないのです。
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失 業中の友人がいるのですが、前職の過労でやせ細ってしまった体がみるみるうちに生気を取り戻して、肉体的にも精神的にも、以前より一回り大きく見えます。 彼はクリスチャンではないですが、神様は人に必要な休息を与えるのだということを彼を見ていると実感させられます。きっとじきに次の良い仕事が見つかるこ とと思います。
それではまたいずれ。主にありて。