9月18日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約9月18日「信仰はどこから」
ローマ4:23~251

私 たちは「信仰」という言葉からどんなイメージを思い起こすでしょうか。「信仰」は別の言い方にすると「信頼」ということです。私たちは病気になると、信頼 できる医師のところに行きます。様々な人間関係も信頼によって成り立つものです。人間は何かを信頼することなしには生きることのできない存在です。信仰と は「何を信頼して生きるか」ということです。もちろんクリスチャンは主イエスを信頼して生きる者です。

加えて、パウロはクリスチャンを 「義と認められた存在」であると言います。クリスチャンは罪人でありながら、同時に神の前に正しいと認められた者であるということです。今日の聖書箇所に は、義と認められることと、キリストの十字架と復活の出来事が関連づけて書かれています。今日は敬老の日ですが、考えてみますと、祖父母になるということ は自分の外側の出来事です。自分の意志でも努力でもなく、自分の子の出産という、自分の外側の出来事が自分を祖父母にします。それは新しい関係が始まると いうことです。自分の外側の出来事によって自分に「祖父母と孫」という新しい関係がもたらされるわけです。私たちにとって、十字架と復活の出来事は時間的 にも距離的にも自分から遠く離れた出来事であって、これも自分の外側の出来事です。しかし、その出来事によって、主イエスを信じる者は義なるものとされ る、つまり「主と自分」の関係が生まれるわけです。

パウロは、アブラハムの場合はどうであったかを語ります。アブラハムも、自分の意志や 努力によって「父」となったのではありません。「自分の体が死んだも同然である(19節)」「無いものを有るもののようにお呼びになる方(17節)」とあ るように、神は「死んだ状態」の彼らに「無から有を呼び出す」ようにしてイサクを与え、「父」としたのです。神の約束という外側の出来事によって、アブラ ハムの内側に事象が起こったのです。

聖書のいう信仰は「信心」でも「信念」でもありません。それはどちらも自分の内なる意志や努力によっ てなるものです。しかし私たちの信仰は自分の外側の神によって呼び起こされるものです。私たちはその信仰によって、神に向かって立ちます。「神と自分」の 関係が神によって与えられた故に、神に向かって立つことができるのです。パウロはこの、神に向かって立つ信仰について、「信仰は聴くことによる(10 章)」と言います。また「神の力の中に(Iコリント2:5)とも言います。無から有を生み出す信仰は「神の力の中に」こそ根拠があるのです。

私たちの信仰は私たちの内側、心や意志や努力によって成るものではなく、外側から一方的な神の恵みによって与えられたものであり、故にその根拠はどこまでも「神の力の中に」あるのです。

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ノーベル医学生理学賞を日本人の大隅さんが受賞したニュースで世の中がもちきりですが、新聞等の解説を見ても今回の受賞研究の「オートファジー」というのがよく理解できません。でもたぶんともかく、神様の創造の御業の見事さがまた一つ証明されたということなんだろうなー、と、極めてファジーな解釈で納得しているこの数日です。それではまたいずれ。主にありて。