9月11日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約9月11日「笑いの創造」
ローマ4:18~21

ク リスチャンとはキリストと結びついた者です。決して聖人君子のような者ではありません。罪だらけであっても、人格的に不十分であったとしても、キリストに 結びついていれば、その人はクリスチャンです。反対に、どんなに人格的に立派であって、聖書の知識がたくさんあっても、キリストに結びついていなければ、 その人はクリスチャンではありません。ヨハネ書の15章には、キリストに結びついた者は「喜びの実を結ぶ」と書いてあります。この「喜び」とは精神的な喜 びを内包した霊的な喜びです。キリストに結びついている者だけがこの喜びを得ることができるのです。どんなに罪深く欠けだらけの者であってもキリストに結 びついていれば、この喜びに与ることができるのです。

現代社会は様々なストレスに満ちています。最近の研究では、様々な病気の発生原因と してキラーストレスという考え方が提唱されています。ストレスが直接の原因となって、ガンや心疾患を起こし、人を死に至らしめる、ということです。考え方 こそ、最近になって提唱されたものですが、それ自体はアブラハムの時代から存在していました。アブラハムの生涯をみると、キラーストレスが生み出される状 況が多々あったことが分かります。

アブラハムについて、創世記とローマ書では描き方が違います。パウロがこのローマ書で描いているアブラ ハムは「模範的な良いアブラハム」です。一方で創世記には「不信仰で悪いアブラハム」も描かれています。創世記のアブラハムは神様に与えられた「子どもを 与える」という約束を笑ったのです。「そんなことはありえない」と鼻で笑ってしまったアブラハムとサラが創世記には描かれています。彼らは高齢だったの で、人間の常識では、今さら子どもが与えられるということは不可能だったのです。故に彼らのこの笑いは「常識的笑い」であると言えます。神様は人間的な常 識とは無関係に、人間的な常識を超越して、彼らに子どもを与えると約束しているのに、それを笑うということはそれは「不信仰の笑い」であるとも言えます。 神様は特にサラに向かって「あなたは笑った」と指摘しました。サラは怖くなって「笑っていません」と否定しました。しかし神様は「確かに笑った」とさらに 追求しました。この厳しく恐ろしい追求は人ごとではありません。この笑いは、私たちの心を代表した笑いでもあるのです。私たちも彼らと同じように常識にと らわれて、神様の約束や恵みを信じられない時がないでしょうか。「そんなことありえない」と聖書を読んで笑うことがないでしょうか。

ロー マ書に描かれている「良いアブラハム」は「望み得ないときに望みを抱いて信じた」「不信仰によって神の約束を疑うようなことをしなかった」「反対に、信仰 がますます強くなった」「神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じた」と描かれています。実に不思議です。どうして創世記で「不信甲の笑 い」をしたアブラハムと同じアブラハムを、創世記ではこれほど模範的な人物として描いているのでしょう。あの「笑い」はなかったことにされているのでしょ うか。

しかしそうではありません。本当の不信仰とは「神そのものを信じない」「神の約束を捨てる」ということです。アブラハムは約束を笑 いはしましたが、神様を笑ってはいませんし、約束を捨てることも無視することもしませんでした。笑ったアブラハムは不信仰でありながら、本当に不信仰では なかったということです。神様は人間の不信仰の前に対峙し、疑いを乗り越えて真の信仰をも創造して下さいます。「不信仰の笑い」は神によって「信仰の笑 い」に作り替えられるのです。その再創造の御業により、私たちは人間の常識から解放され、神の約束に信頼して生きることができるようになるのです。
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10 月になりました。早いですね。クールビズのシーズンが終わって、しっかりジャケットを着用した方をたくさん見るようになりました。もっと冬になるとコート の出番になってジャケットが隠れてしまいますし、街でジャケット姿を見る季節って意外と少なくなったのかも知れませんね。
それではまたいずれ。主にありて。