9月4日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約9月4日「希望の質」
ローマ4:18~21

このローマ書4章はアブラハムだらけです。
私たちは毎日同じものばかり食べていると飽きてしまいますが、この章のアブラハムは霊の糧としていくら食べても飽きないものです。

さ て、私たち人間は希望がないと生きていけないと言われます。教育界では子ども達に将来の希望を持つべく教育をし、医療界では特に終末期にある人たちに、生 きる希望を持つように励まします。「希望を見出せない」ということは悪いことのような雰囲気さえ感じてしまいます。なぜそこまであらゆることに希望を求め るかと言えば、希望は人々にとって救いとなるからです。

現代の多くの聖書学者は「人が、なぜ自分が救われなくてはならないかを分からない のは、現代では人がもはや『罪』を理解できなくなっているからだ」「危機の原因は、罪について理解していないことだ」と説きます。そして「故に人々は相対 的なものに依存して生きるようになる」と指摘します。
「希望」もその「相対的なもの」の一つの現象と言えるかも知れません。キルケゴールはその現象について「神との永遠性の関係に関心がないからだ」と言います。

パ ウロは「彼(アブラハム)は望み得ないときに望みを抱いて信じました」と言っています。驚くべき言です。私たちは希望を持つことができないときは、どうし ても希望をもつことができないものです。「絶望に見える時こそ希望を持ちましょう」と言葉で言うのは簡単ですが、なかなか本当に絶望の中で希望を持つこと は難しいことです。そんな時にムリヤリに希望を持とうとすれば、苦痛にさえなります。しかしアブラハムは違いました。この前半の「望み得ない」とは人間的 な希望です。人間の目から見て無理に見える、ということです。それに対して後半の「望みを抱いて」の希望は神の約束から産まれてくる希望です。人間の目で は希望を持てない状況であっても、神様が約束して下さったことを信じる信仰から、真の希望、永遠の希望が産まれてくるのです。

これがアブ ラハムの信仰生活の本質です。アブラハムに対して神様は「一人の子どもを与える」と約束しました。アブラハムも、その妻サラもこのとき、すでに高齢であ り、人間の常識で言えば今さら子どもが与えられることは不可能なことでした。故に彼らでさえ、その約束を神様から聞いた時は笑ってしまいました。しかし、 笑いこそすれ、疑うことはしなかったのです。ここに神の約束に根拠を持つ希望の質の高さがあります。

世の中では希望希望と言われますが、希望ならなんでも良いということではないのです。希望には質があります。質の高い希望もあれば、質の低い希望もあります。その中で、神様の約束に根付いた希望は最高のものであり、それこそが、私たちが生涯を委ねるに足るものなのです。
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すっ かり気候が秋めいてきました。松茸、栗、秋刀魚など、秋の味覚に触れることも増えましたが、個人的に今年の一押しは落花生、ピーナッツです。ピーナッツは 一年中お店に売っていますからあまり旬を意識することはありませんが、10月が旬だそうです。この時期は生の落花生が出回ります。これを炊き込みご飯にし たりすると美味しいです。作り方は栗ごはんなんかと同じ要領です。優しい甘みがあって美味しいですよ。お試しあれ。
それではまたいずれ。主にありて。