8月21日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約8月21日「信仰と洗礼どちらが先か」
ローマ4:9~12

「信仰と洗礼どちらが先か」なんだか「ニワトリかタマゴか」のような問いですが、これは私たちの信仰の根幹に関わる非常に重要な問いです。現代では、悔い改めのない人に洗礼を授けてしまう教会が少なくありません。それはこの問いに端を発する問題なのです。

ロー マ書4章には「幸い」という言葉が4回も使われています。パウロは詩篇32篇のダビデの言葉を引用し、本当に幸いな人とは「罪が赦され、主によって罪を認 められない人である」と語りました。ダビデはご存知の通り、イスラエルの王です。彼は誰もがうらやむほどに何でもでき、何でも手に入れることができまし た。能力においても財産においてもこれ以上はないほどに満たされていました。しかしそのダビデが、真に幸いな者とは罪の赦された者であると語ったのです。 この「幸い」は有名な山上の垂訓で主イエスが「幸いなるかな、こころの貧しい人は」と語ったときの「幸い」と同じです。山上の垂訓ではこの「幸い」が9回 も用いられています。

「幸福論」はいつの時代も人々の大きな関心を集めています。それが語られない時代は、史上一度もないと言って過言で はないでしょう。人々は各々、自分の気に入った「幸福論」に飛びつきます。しかし、人の語るいかなる幸福論も「主によって罪が赦される」という幸福論に勝 ることはありません。パウロはこの幸福について「この幸いは割礼のある者にだけ与えられているのでしょうか」「割礼のない者にも与えられているのでしょう か」とユダヤ人たちに問いました。彼らが「自分たちは選民イスラエルであり、割礼により特権を与えられた民族である」という選民思想を持っていたからで す。あたかも救いの根拠が自らの内にあるかの如く、彼らは考え、また行動していたのです。そこでパウロは「信仰の父」アブラハムを例に出して語りました。 アブラハムは神からの召命を受け、まだ見ぬ土地へと旅立ちました。そして彼の恐れと不安が最高潮に達した時に「信仰によって」義とされ、その義認の証とし て割礼が与えられました。

旧約時代における救いの証である割礼は、新約の時代にあっては洗礼に置き換えられます。即ち、アブラハムは洗礼 を受ける前に救いの恵みを受けたのです。先に救いがあって、後に洗礼が来ます。洗礼は救いの証であり、救いの恵みなしに受けることはできないのです。つま り冒頭の問い「信仰と洗礼どちらが先か」への答えは「信仰が先である」ということになります。救われた者が洗礼を受けるのであり、洗礼を受けた者が救われ るのではありません。決してこの順序を違えてはいけません。

12節に「信仰の足跡に従って」とあります。これは「まねる」という意味です。救いの恵みを受け、洗礼を受けた者はアブラハムをまねて歩むのです。それは洗礼自体についてもそうなのです。
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昨 日の礼拝で、洗礼式と信仰告白式がありました。信仰告白式というのは、子どもの頃に幼児洗礼を受けた人が正式にクリスチャンになる礼典です。普通は信仰告 白をしてから洗礼を受けるのですが、この場合はそれが逆になるのです。この信仰告白をしなくては、いくら幼児洗礼を受けていても聖餐には与れません(正式 なクリスチャンとして認められません)。ここでも今回の説教通り、信仰が先で洗礼が後、という原則が守られているわけです。
それではまたいずれ。主にありて。