8月14日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約8月14日「信仰による義認」
ローマ4:1~12

ロー マ書の説教、3章にずいぶんと長く時間をかけましたが、今日からようやく4章に入ります。今日のタイトル「信仰による義認」とは「福音とは何か」という題 に言い換えることができます。パウロは、福音の中心はイエスキリストによって救いの恵みに与ることにあると言い、さらに信仰によってその救いの恵みに与っ た人物のとして、アブラハムとダビデを挙げました。アブラハムはユダヤ人にとって「信仰の父」であり、信仰とアイデンティティのルーツであり、ダビデは今 もなお歴史上の代表的な王、名君として人々から愛され尊敬されている人物です。

パウロはそのアブラハムについて「それでは、肉による私た ちの父祖アブラハムの場合はどうでしょうか」と、この4章1節で語り始めました。ここにある「肉による」という表現は、「霊による」と対になる表現です。 パウロは8章13節で「もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるので す」と語ります。即ち、パウロは人間には二つの生き方があると言っているのです。第一は肉に従う生き方「生から死へと向かう生き方」であり、第二は霊によ る生き方「死から生へと向かう生き方」です。パウロはここで後者の生き方を強く主張しています。それは、ただ信仰によって神の救いの恵みに与る、というこ とに、ユダヤ人たちが納得できず、なお律法も救いには必要であると主張したからです。だからこそ、パウロはユダヤ人たちのルーツであるアブラハムの生涯に ついて語ったのです。

アブラハムは、神の召命に無条件に従って、「まだ見ぬ地」へと出発しました。それなりの生活と財産を保証されていた にも関わらず、それらを投げ捨てて、神の意志のままに何が起こるか分からない地、人生へとその身を委ねました。そのことによってアブラハムは義とされまし た。行いについて言えば、アブラハムの人生は実は失敗だらけのものでありました。行いによってではなく、信仰によってのみアブラハムは義とされたのです。 アブラハムは神の命令に従い、たった一人の愛する息子であるイサクをも神に捧げる意志を示し、そのことによって信仰の訓練に合格しました。それは「息子を 捧げる」という行動そのものが義とされたのではなく、その行動の動機となる信仰が義とされたのです。アブラハムが信仰によって義と認められた様子は創世記 の15章に記されています。彼は、不安を抱えた状況の中でひたすらに神の約束を信じたことで義とされたのです。

一方ダビデも、行いにおい ては姦淫と殺人の罪を犯し、神の前から隠れました。しかしやがて神の前にその罪を悔い改め、砕かれた魂を持つにいたり、信仰によって義と認められました。 アブラハムもダビデも行いにおいては救われることはできず、ただ信仰によって救われたのです。私たちも同じように、行いによってではなく信仰によって義と されるのです。このことが「福音とは何か」という問いへの答えです。
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「アブラハムには7人の子♪」って歌がありますけど、アブラハムの子どもはイサク1人だけです。どうしてあの歌では7人に増えてしまったんでしょうね。さらにどうして「一人はノッポであとはチビ」なんでしょうね。謎です。こんど調べてみようかな、と思います。
それではまたいずれ。主にありて。