8月7日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約8月7日「恵みによって生きる」
ローマ3:27~31
人 間の生き方は千差万別です。哲学者ヤスパースは人が「何に基づいて生きるのか」「何に向かって生きるのか」を問いました。この問いは単にヤスパース個人の 問いではなく、人類共通の問いと言えるでしょう。しかしクリスチャンはこの問いに対する答えを既に聖書によって持っています。クリスチャンは恵みによって 生きるのです。
パウロはまだサウロであった頃、割礼を受け、律法を与えられた民族としての誇りに基づいて、律法による救いに向かって生き ていました。パウロだけでなく、彼の同胞たちも同じです。彼らは社会的にそのような立場で生きただけではなく、神様との関係においても、自分たちは選民イ スラエルであり、特別な民族である故に特別に扱われなければならない、という傲慢な思いさえ抱いていました。彼らは神に対してさえ、自らを誇ったのです。
私 たちの心にももし、「私だけが特別に。私を中心に」という思いがあるのなら、それは「ユダヤ的」だと言うことになります。故村上末吉牧師は説教集で「ユダ ヤ人たちの誇りは、意地ということだ」と語っています。「行いの原理ではない。信仰の原理によって人は救いに与ることができるのだ」というパウロのメッ セージを、ユダヤ人は意地になって受け入れませんでした。そんな彼らに対してパウロは駄目押しするかのように「それとも、神はユダヤ人だけの神でしょう か。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。」「神が唯一ならそうです」と語りました。
本当の 神にとっては、人に割礼があるかどうかは、まったく問題ではありません。「ユダヤ人であろうが、異邦人であろうが信仰の原理によって義として下さる」「そ れが唯一の神だ」とパウロは宣言しています。なぜなら、パウロ自身がダマスコ途上で律法の義、自分の義が、神の義によって打ち砕かれる経験をしているから です。ところが、ここに大きな矛盾が起きました。神は人に律法を与え、しかしそれにも関わらず、信仰による義(救い)の道をも開いたのです。律法により義 が与えられるなら信仰による義は必要なく、信仰により義が与えられるなら律法による義は失われてしまいます。ここに大きな矛盾があるのです。しかしパウロ は言います。信仰による義が与えられたら、律法による義は無効になるのか、断じてそうではない、と。主イエスは律法を無効にするためではなく、律法を成就 するために来られ、十字架にその義を現して下さいました。この十字架により、大きな矛盾は解決されているのです。十字架による恵み、まさにこの恵みに生き ることが私たちクリスチャンの生き方なのです。
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「闇金 ウシジマくん」という映画を観たのですが、主人公のウシジマくんは10日で5割という、とんでもない利息をとる闇金業者です。1ヶ月借りたら3.375 倍、1年借りたら218万4164倍という恐ろしい数字です。しかもウシジマくんは返済が無理な相手でも情け容赦なく取り立てて「地獄の底まで」追いつめ ていきます。
僕たちクリスチャンが神様に「罪」という形で借りている負債も、たぶん似たようなものです。罪は雪だるま式に膨れ上がっていきますし ね。神様が情け容赦なく取り立てにきたら、僕らはなす術もなければ言い訳もできません。「地獄の底まで」追いつめられてもまだ足りないでしょう。しかしそ んな借金を肩代わりして下さったあの十字架はまさに恵みです。
それではまたいずれ。主にありて。