7月31日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約7月31日「誇りのない喜びの人生」
ローマ3:27~31

人 間が生きてゆくためには「誇り(プライド)」が必要である、と言われます。「誇り」を辞書で調べると「自慢、得意、満足、自尊心、プライド、うぬぼれ、高 慢、思い上がり、自慢のたね」と説明されています。この内容から言えば、誇りには健全な誇りと不健全な誇りがある、ということが分かります。「あの人はプ ライドが高い」という時、一般的にはそれは「あの人は高慢だ」という意味になります。一方で、私たちが自信なさそうにしていると、人は「自信を持ちなさ い」と言ったりします。誇りとは実に厄介なものです、誇りを持っていれば「高慢だ」と言われ、持っていなければ「自信を持て」と言われてしまうのです。

パ ウロは誰よりも高い誇りを持った人でした。生粋のヘブル人であること、イスラエル民族に属しており、アブラハムの子孫であること、産まれて八日目に割礼を 受けていること、ベニヤミンと同時に、律法についてはパリサイ人であること、これらが彼の誇りでありました。イスラエルの民も皆、パウロほどではないにせ よ、選民イスラエルとしての高い誇りを持っていました。誇りとは自分の人生の土台であり、拠り所であるということです。

高い誇りを持って いたパウロが「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか」と言います。原語のギリシア語には「私たちは」という単語はありません。しかし「誇り」 に定冠詞がついていました。その意味するところは「強調」です。パウロは「それでは、その誇りはどこにあるのか」と同胞たちに問い、次いで「それはすでに 取り除かれました」と言いました。かつてのパウロを支えていたのは人間的な誇りでした。その誇りはダマスコ途上で復活の主イエスと出会って砕かれ、取り除 かれました。故に救いの原理、義の原理は、行いの原理や血統の原理ではなく、信仰の原理によるのだ、とパウロは言うのです。

私たちがもし、自分の経験、資格、業績、専門性や人の評価の高さなど、人間的な誇りで歩んでいるとすれば、それは「行いの原理」に生きているということです。本物の誇りとは人間的な誇りではなく、信仰の原理に基づいた喜びの生活のことをいうのです。
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オ リンピックが終わりました。日本の選手は勝った時に家族やスタッフに感謝することが多いですが、海外の選手は神様に感謝を捧げる人がたくさんいます。家族 やスタッフへの感謝ももちろん大切なことですが、神様への感謝を忘れない姿勢に感銘を受けました。これぞ「栄光を主にお返しする」生き方だと思いました。
それではまたいずれ。主にありて。