7月24日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約7月24日「神の真実」
ローマ3:21~31

私たちは、人として真実を求めたいと願うと同時に、真実な生き方をしたいと望んでもいるのではないでしょうか。しかし、真実な生き方をしたいと願いつつも、不真実な生き方をしてしまうのが現実です。

「神 が真実である」とは何を意味するのでしょう。これは「神は裏切らない」ということです。私たちがどんな状況にあっても、常に神は私たちに対して真実に関 わって下さるということです。なぜなら、神は私たちを救いの恵みに導き、義として下さった方だからです。聖書のいう義(救い)は努力や修行、善行によって 得られるものではありません。ノアの方舟の出来事以降、人々は世界中に広がって住むようになりました。そして、人々は各々の暮らしやすい平地をみつけ、 各々の知恵を用いて、神の頂に届くような「バベルの塔」を築こうとしました。自分たちの知恵を世界に知らしめようとしたのです。これは人間の高慢・たかぶ りの象徴的な姿です。神はこの高慢を、彼らの言葉を混乱させることによって破壊しました。

私たちは、この出来事を通して、人間が神の前に どのような存在であるかを知らなければなりません。人間は、どんな知恵(思想・哲学・科学など)を用いても救いにいたることは決してありません。「それで は、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではな く、信仰の原理によってです」と、パウロは信仰を強調しました。さらにパウロは「信仰」について、一般的な意味の「信仰」と区別しました。「イエスキリス トを信じる信仰」としたのです。これは原語のギリシア語では「イエスキリストの真実」となります。

確かに私たちは主体的に主イエスを信じることを求められます。しかし、求められるばかりではないのです。どんな状態、状況にあっても、私たちは主イエスの真実によって義とされ、生涯このお方の真実によって支えられ続けるのです。これが福音です。
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「アハズは二十歳で王となり、エルサレムで十六年間、王であった」II列王記16:1
「吉田沙保里は十七歳で王となり、55kg級・53kg級で十六年間、王であった」

16年って、すごいですよね。一人の女性が負けるのに、世界中がよってたかって16年もかかったわけですから。たぶん、アハズよりもすごいです。

それではまたいずれ。主にありて。