7月17日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約7月17日「神の忍耐」
ローマ3:21~31
私 たちは「忍耐」という言葉から何をイメージするでしょうか。現代人はとかく、忍耐力がない、足りない、と言われます。そこで、世間では強い忍耐力を身につ けるために様々なプログラムが開発されたりしています。辞書で「忍耐」と調べると「耐える力、辛さ、悲しさを耐える力、逃避することなく耐えて乗り越えて いく力」などと説明されています。
聖書では、忍耐という言は二つの意味で使われています。第一は、信仰によって人間の中に産まれてくる徳 の一つ、という捉え方です。この意味での「忍耐」は「愛」や「感謝」と並列のものです。積極的な、良い意味での「忍耐」です。ローマ5:4で「忍耐は品性 を生み出し、品性は希望を生み出す」とパウロは言います。しかも「その希望は失望に終わることがない」のです。聖書の言う希望は、世が与える希望とは本質 的に違うのです。
第二の用法は「神の忍耐」という意味であり、消極的な意味での使われ方です。25節に「今までに犯されてきた罪を神の忍 耐をもって見逃してこられたからです」とあります。ある聖書学者は「神の忍耐」とは日本語の「堪忍袋の緒が切れる」の「堪忍」の意味に近いと指摘します。 堪忍袋の緒が切れるとは、怒り、ということです。神は「今まで怒りを我慢し続けてきた」というのです。
聖書を見ると、ノアの時代に神様の 堪忍袋の緒が切れた様子が記述されています。それがあのノアの方舟のできごとです。神様は地が暴虐に満ちていることに心を痛め、大洪水によって人類を滅ぼ しました。同じ心の痛みが今の世にも向けられていることについて、パウロは「神の怒りが天から啓示されている」と表現しています。神はノアの洪水の時と同 じ怒りを持ち続けつつも、忍耐しておられるのです。パウロは神のその忍耐の目的を「神の慈愛があなたがたを悔い改めに導くことを知らないのか」「それは今 の時に自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」と明らかにしています。そして、 御子である主イエスを十字架で殺すことによって救いを完成させたのです。この十字架の主イエスを受け取ることこそが信仰であり、義とされることなのです。
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オ リンピックの女子レスリングの中継を見て夜更かししてしまいました。レスリングと言えば、聖書では創世記でヤコブが神様とレスリングをするシーンがありま す。訳によっては「角力(すもう)」と訳されているようですが、このシーンが描かれている絵画なんかを見るとレスリングが近いんじゃないかと思います。ヤ コブは大腿骨を折られながらも勝利しましたが、日本の吉田沙保里選手も、中学時代に片腕を骨折したまま全国大会で優勝したらしいですね。とんでもない人た ちです、いやはや。
それではまたいずれ。主にありて。