7月10日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約7月10日「新しいルール」
ローマ3:21~31
27節に「律法の原理」に対して「信仰の原理」という言があります。律法の原理による時代が終わり、信仰の原理という新しい恵みの時代が到来したことをパウロはこの言によって告げています。特にパウロはここで、霊的で信仰的な新しいルールについて語っています。
ど んな時代でも私たちはルール(規則)に支配されているものです。法もその一つの形です。法により社会は秩序が守られ、安心安全な生活が保たれています。法 のない国は世界にほとんど存在しません。また、法以外にも人間関係のルールもあります。「親しき中にも礼儀あり」などの諺はその一つの例といえるでしょ う。
同じように、私たちと神様との関係にもルールがあります。神様はエデンの園の中央に禁断の実を置かれた。そして、その実だけは食べて はいけない、と仰りました。しかし、アダムとイブはその実を食べてしまいました。このことによって神様と人間との間のルールは壊れてしまいました。本来な らば、ルールを犯した人間の側が、関係回復のために神様に近づいてゆくのが筋です。しかし、神様は自分の方から人間に近づき、関係を回復する道、救いの道 を開いて下さいました。これが救済史です。神様はそのために一番小さな民族であったイスラエルの民を選び、救いの歴史を展開されました。この選びはイスラ エルの民にとって神様の恩寵でありました。しかし彼らはエリート意識を持って他の者を見下すようになってしまいました。
そんな民がローマ 教会には、その一員として存在していたのです。パウロはこのローマ書簡の1章から3章20節まで、異邦人とユダヤ人の罪を指摘しました。ここまでがローマ 書簡全体の「緒論」にあたります。3章21節からが、いよいよ「本論」となります。パウロはこの「本論」を「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預 言者によって証しされて、神の義が示されました」という一文を以て語り始めます。これは1章17節と同じ内容です。ここでは「しかし、今は」と感動を交え ながら語りました。ここで強調されている「神の義」という言はローマ書簡全体に渡るキーワードで、ローマ書全体で65回も使用されています。神の義は旧約 聖書で語られ、主イエスの十字架を通して人類に表されました。それによって律法の原理の時代が終わり、信仰の原理による救いの道が開かれたことをパウロは この書簡を通して、そしてまさに今日この箇所により、高らかに宣言しているのです。
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それではまたいずれ。主にありて。