7月3日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
—————————————
説教要約7月3日「律法の有効性」
ローマ3:9~20
私 たちにとって人間理解はとても大切なことです。人間理解は自己理解と結びつくからです。特に今この21世紀は理性の光、つまり科学の光で人間を照らして理 解しようとする時代となりました。脳研究が飛躍的に進み、他の諸科学と結合して人間を分析しようとしています。さらにその理性の光は物質や生物学の領域だ けでなく、スピリチュアルの領域までも自ら照らそうとしています。しかし、それは無理なことなのです。理性の光は所詮、人間の深層を理解することはできま せん。
パウロはこのローマ書簡の1~2章で異邦人とユダヤ人の罪の問題について述べました。それは人間の深層を信仰の光をもって指摘した ということです。今日の箇所、3章9節に「では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前 に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです」とあります。この「責めた」は口語訳や新共同訳によれば「指摘した」です。この言 葉は実は聖書の中では非常に珍しい言葉で、新約聖書でこの言葉が用いられたのはこの箇所だけです。実はこの言葉は一般的に用いる語ではなく、当時の法廷用 語でした。パウロは法廷用語を用いて「告発した」「告訴した」ということです。RSV(改訂標準訳聖書)では「罪の力の下にあることを私たちは告発した」 となっています。これは適訳だと思います。律法と割礼とを与えられ、自分たちを特別な民族であり義人であると自認しているユダヤ人たちを、パウロは「罪の 力に屈服している」と告発したのです。
現代社会は人間の罪を問題にしません。罪自体よりも生育環境に焦点をあてて、そこに問題を求めるこ とが多くなりました。しかし、もしパウロが現代に生きてこの状況を見たならば「絶対に、そんなことはない」と断言することでしょう。詩篇14:2に「主は 天から人の子らを見下ろして」とあります。人間理解は人が人を見ることによっては完全には不可能で、即ち理性の光では照らすことができず、天からの視点に よってのみ、完全になしうるということです。では、その天からの視点で見た人間とはどのようなものでしょうか。パウロは10節から「義人はいない。ひとり もいない。悟りのある人もいない。神を求める人もいない。すべての人は迷っている。善を行う人はいない」と、非常に否定的なことを語ります。義人とは 「まっすぐである」という意味で、神の前にまっすぐに歩むものはいない、ということです。私たちがどんなに律法を守ろうとしても、それは不可能であり、罪 の意識が生じるばかりだと言うのです。しかし、罪の意識なしに悔い改めはありえず、悔い改めなしに主の贖いはありえません。その意味で律法は人を十字架に 至らしめる道具として有効なのです。
—————————————
ウルトラマンの生 みの親、円谷英二さんは熱心なクリスチャンだったようで、「ウルトラマン」の中には聖書から影響を受けている事柄がたくさんあります。例えば必殺技のスペ シウム光線、ウルトラマンが両手を十字に組みますよね。あれはキリストの十字架から着想したのだそうです。・・・いえ、実際お会いして聞いたわけではあり ませんから本当のところは分かりませんが、そういう説があります。「光」ということでちょっと思い出したので書いてみました。
それではまたいずれ。主にありて。