6月19日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
—————————————
説教要約6月19日「本当に大切なもの」
ローマ2:17~29
主イエスは「なくてはならぬものは多くはない。いや、ひとつである」と仰りました。「しかし、そうは言っても私たちが生きていく上で大切なものはたくさんあるではないですか」と言いたくなるかも知れません。
ユダヤ人たちは、神が自分たちに必要な者として「律法と割礼を与えて下さった」と誇っていました。確かに、神はモーセを通して、彼らに生活の基準である律法 を与えました。彼らは、自分たちが全世界の数ある民族の中から、特別に選ばれた民族であり、律法を通して世界を照らす光であると自負していました。それば かりか、自分たちは義人である一方で、異邦人を罪人であるとみなし卑下しました。彼らは律法を日常生活の隅々にまで適応させるために、細かい規定を作り (口伝律法)国家と生活を納めました。これがイスラエル民族のあり方でした。ユダヤ人たちは神を誇り、「人々の導き手」「幼子たちの教師」と自認していま した。 しかしパウロは「あなたは律法を教えていながら、律法とかけ離れた生活をして神を侮っている」と、彼らの罪を指摘しました。さらに、ユダヤ人を ユダヤ人たらしめている割礼の問題を指摘しました。割礼はユダヤ人たちの神との契約のしるしです。割礼は「私は神様にお従いします。そして、神様が行けと 仰る所に行きます」という意思表明です。また、神様の「あなたの人生を祝福のうちに導く」という約束の証でもあります。
ユダヤ人たちは自分たちがアブラハムの子孫であることを誇りに思っていました。アブラハムの生涯は失敗の連続でありましたが、愛する一人息子イサクを燔祭の生け贄として捧げた、そのことの故に
誰よりも神様に喜ばれました。それは父なる神のひとり子イエス様を人類の罪の赦しと救いのために捧げた、ご自身の心の痛みと通じるものがあったからです。
しかしユダヤ人たちは割礼の心と意味を忘れ、儀式と形式を重んじ、生命を喪失しました。そこでパウロは、大切なのは「御霊による心の割礼である」と言ったのです。私たちは心の割礼を受けた者なのです。
—————————————
世の中はお盆休みですね。教会はお盆休みはありませんから、今度の8月14日の日曜日も通常通り礼拝をいたします。上馬教会の主日礼拝は「年中無休」です。 日曜日であればお正月であろうとお盆であろうと必ず朝の10時45分から礼拝を致します。「日曜日に教会に行ってみたけど留守だった」なんてことはありま せん。安心してお越し下さいませ。それではまたいずれ。主にありて。