6月12日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約6月12日「心に刻まれた律法」
使徒2:12~16

世の中には聖書を哲学書、道徳書、倫理書として読む人が少なくありません。しかし、聖書の根本はそういったところにはなく、信じる者に永遠の命が与えられ、 拒む者に対して神の怒りが臨む、という点にあります。聖書は人間の人生の永遠に関する権能を持っているということです。聖書は決して人間の人生を楽観的に 描いたり、その素晴らしさだけを描いたりした書ではありません。むしろ、人間の醜い面や、触れて欲しくない、暴露されては困るような罪の深さを真実に書い ています。

ローマ人への手紙は、神の福音こそ罪深い人間を救うことができる神の力である、ということが強調されています。そしてパウロは 人間を救い得る唯一の方法を「私の福音」であると言ったのです。それはパウロ自身を救いの恵みに与らしめた主イエス・キリストの福音のことです。16章 25節を見ると神は神の時が満ちたときに人間を救うことと裁かれることが明らかであり、その父なる神が主イエス・キリストを通して人間を救い、また裁かれ る、と言います。まさに福音はダイナマイトです。ダイナマイトは岩が硬ければ硬いほどその威力が発揮されます。人間の罪が深ければ深いほど、福音はその力を発揮するのです。

ユダヤ人たちは選民として自らを誇り、自分たちは神の裁きからも逃れられると安心していました。自分たちには律法が与 えられているが、異邦人には与えられていない、だから異邦人は「犬」である、とバカにしていました。パウロはそんなユダヤ人たちに、律法が与えられていな い異邦人が罪を犯すのは当たり前である、しかし、神を知り律法を与えられている自分たちを義人だと自認しているあなたがたはどうなのか、神は分け隔てなく 私たちを取り扱うのである、と問いました。ユダヤ人に律法という基準が与えられている一方で、異邦人たちには良心という律法が心に刻まれているのだと、パ ウロは語ります。良心とは「自分を抜け出して自分を批判できる能力」のことです。神はそれぞれの基準によって裁きます。ユダヤ人は律法によって裁かれ、異邦人は良心によって裁かれ、そして私たちクリスチャンは御言によって裁かれるのです。私たちの心にしっかりと御言は刻まれているでしょうか。
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この週末に、石神井公園の灯籠流しに行ってきました。「異教の祭りじゃないか」ってツッコミが入るかもしれませんが。。。池に流れる灯籠の光を眺めながら ビールを飲んでいたら、自然と「神様、日本の夏を感謝します」という祈りが口からポロッと出ました。。昼間はセミがミンミン、夜には虫がリンリンの日本のこの独特の夏は、これも神様の創造の御業だなと思うわけです。そんなわけで普段は発泡酒なのに、この日ばかりは贅沢してちゃんとビールを飲みました。それではまたいずれ。主にありて。