6月5日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約6月5日「えこひいきしない神」
使徒2:6~11

「え こひいきしない」を別な表現に言い換えると「中立」「公平」ということになります。日本人はよく「ここの神様より、こっちの神様の方がいい」というような 考え方をしますが、聖書の神はそういう考えには組みしません。詩篇121篇の私人は「私たちの神はまどろむことも眠ることもない。そして私たちの命を守 り、行くにも帰るにも今より永遠に護られる方である」と告白しています。パウロは11節で「私たちの神は『えこひいきするような神ではない』」と言いま す。別の訳では「神は人を分け隔てなさいません(新共同訳)」「なぜなら、神にはかたより見ることがないからである(口語訳)」となっています。パウロ は、私たちの神は公平に人を分け隔てなく扱って下さるかたである、と言うのです。

人はよく何か争いがあると「中立な立場で」「公平な立場 であなたの話を聞きます」と言います。しかし、人間には完全に中立・公平ということはありえません。必ずどちらかに偏ります。真に中立・公平であるのは三 位一体の神だけです。詩篇135篇の詩人は「まことに、主はヤコブを選び、ご自身のものとされ、イスラエルを選んで、ご自身の宝とされた」と告白し「まこ とに、主はご自分の民を裁き、そのしもべらを憐れまれます」とも告白しています。神様は決して偏った方ではない、ということです。

パウロ は今日の箇所で信仰のことではなく、キリスト者の「行動」「生き方」について問題にしています。6節に「神は、ひとりひとりにその人の行いに従って報いを お与えになります」とあります。この「報い」はギリシャ語で「お金を返済する」の意味であり、借りたら借りただけ返済する、ということです。パウロはエペ ソ2:10で「私たちは神の作品で・・・私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えて下さったのです」と言います。だから、パウロの 言う報いは因果応報ではありません。一日一善でもありません。私たちが主の前に立ったとき、神が私に備えて下さった道をどう歩んだか、が問われるというこ とです。主の備えたもう道を歩むことが求められているのです。
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5 月29日の礼拝は、宇都宮キリスト集会牧師の宮村武夫師に説教をいただいたので、この説教要約は一つ飛ばしになりました。。この説教要約は原則として上馬 教会の主任牧師である渡辺俊彦師の説教のみを掲載いたします。だってそうしないと、掲載許可をいただいたり内容の確認をいただいたりが大変で、ただでさえ 遅れている更新作業がさらに遅れてしまいますからね。怠惰な担当者ですみません。
それではまたいずれ。主にありて。