5月22日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約5月22日「福音に近い人」
ローマ2:1~5

あなたは「福音に近いか?遠いか?」と誰かに今、問われたら何と答えるでしょうか。
ミ カ書6章8節に「人よ。何が良いことなのか。主は何を求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むこと ではないか」とあります。主はこのような者を求めているのです。しかし実際の人間は「不義をもって真理を阻んでいる」とパウロは言います。実際の人間は福 音から遠い存在である、ということでしょう。

では、福音に近い人とはどんな人でしょうか。パウロはローマに手紙を書く少し前、ギリシャ文 化の都アテネの街に滞在し、広場で「そこに出会う人々を相手に論じる」エピクロス派やストア派の哲学者たちと出会い、彼らの議論に巻き込まれました(使徒 17:16~21)。パウロは彼ら流の論法「ディアトリベー」を用いて彼らを論破すべくローマ書の2章を記述しました。その論破の相手は誰でしょう。2章 1節で「ですから」と言っていることからそれは異邦人の庶民だ、という人々がいます。当時の状況から、それは皇帝ネロの家庭教師であったセネカ等を代表と するインテリ異邦人だ、とする説もあります。異邦人への語りかけは1章で終わっており、2章で「あなた」と語りかけている相手はユダヤ人ではないか、とい う説もあります。

どれも理のある説ですが、私の考えではパウロはユダヤ人を中心に論じています。ユダヤ人たちは選民イスラエルとして自分 たちを誇り、異邦人たちを見下していました。自分たちは神の裁きを逃れるとさえ思っていました。そのようなユダヤ人たちにパウロは「弁解の余地はない。あ なたがたは異邦人と同じことをしている」と指摘しました。そして「神の慈愛があなたを悔い改めに導くことを知らないのか」と詰め寄ります。

福音に近い人とは「人を裁いて自ら神の位置に座してしまう罪」を悔い改める者のことです。
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今日の「デザート」は久しぶりにジョークを一つ。

ある二人がコンサートへ行ったが、ピアノの演奏が気に入らなかった。
「このピアニスト、まことに、キリスト教的慈愛に満ちた演奏をするわね。」
「どうして?」
「彼の右手は、左手がしていることを知らないのよ。」

「あなたは施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」
マタイ6:3

それではまたいずれ。主にありて。