5月8日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約5月8日「神を知っていながら」
ローマ1:18~32

今 日の説教題は「神を知っていながら」ですが、これは別の表現をすれば「弁明の余地はない」ということです。現代社会は「人間をどう理解するか」という人間 論の時代となっています。20世紀は様々な諸科学が進歩・発展しました。しかし、人間を幸福にするはずの科学は多くの不幸を生み出しました。その結果、人 類は「人間とは何か」ということを探求するようになりました。特に最近では「人間はどのようにしたら自分を知ることができるか」という問いを持つようにな りました。この問いは古くて新しい問いです。聖書は自分を知るということに無関心ではありません。むしろ聖書は人間の姿を明らかにし続けてきました。

パ ウロは神の福音に神の義と怒りが啓示されている、と言います。その怒りは「不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正」に対してのもので す。これは、神が人間をどう評価しているか、ということです。神は天地創造されたときから、被造物が目に見えない本性と神の永遠の力と神性を認識すること ができるよう、手を打っていました。だからこそ私たちは神の存在が分かるのです。しかしそれなのに人間は神を否定しました。それで神は「彼らに弁解の余地 はない」というのです。神の存在を理解するに足る感性と知性とを与えてあるのにも関わらず、神を否定するのだからもはや弁解の余地はない、ということで す。そして神は人間をその欲望のままに「引き渡し」「任せ」ました。これはギリシア語で「パラディドナイ」という言葉で単に「引き渡し」「任せ」ただけで なく「さじを投げ」「ほったらかしにした」ということです。そのため、人間は霊的な堕落、道徳的な堕落、理性的な堕落、に陥ってしまったのです。

パ ウロは「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が」と言います。この「渡された」が「パラディドナイ」です。父なる神は御子 イエス・キリストを人間の罪の中に「引き渡した」のです。父なる神に捨てられた人間と、同じく父なる神に捨てられた御子イエスが、十字架の苦難の中で出会 い、ここに人間の救いの道が開かれたのです。弁解の余地がなかった私たちの中に、罪のないイエス・キリストが同じように立って下さり、同じ絶望を受けて下 さったからこそ、私たちに救いが与えられたのです。私たちに弁解の余地はありませんが、主イエスが代わりに弁解して下さるからです。
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「さ じを投げる」という言葉の語源は実は聖書に・・・と言いたいところですが違います。昔は医者と言えば薬を処方して病気を治すのが主な仕事でした。今では医 者と薬剤師は別の仕事ですが、昔は医者=薬剤師だったんですね。それで、どうにもならない状況を示すのに、医者が薬さじを投げ出すほどの病状、ということ で「さじを投げる」という言葉が使われるようになったのだそうです。以上、聖書とは関係のない、ただの豆知識でした。それではまたいずれ。主にありて。