5月1日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約5月1日「神の大冒険」
ローマ1:18~19

現 代社会の問題の一つとして「父親の不在」が挙げられています。若い方々を中心に「怒られる」「叱られる」という経験の乏しい方が増えていると言われていま す。その反動なのか、最近では若いサラリーマンの一部で「怒られ塾」が人気なのだそうです。「怒られる」「叱られる」ということの重要性を改めて実感させ られます。

パウロは「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません(エペソ4:26)」と言っていま す。怒り自体を罪だとは言っていません。怒っても罪を犯してはいけない、と言っているのです。しかし、人間は往々にして怒りにおいて失敗し、罪を犯してし まう存在です。パウロは罪に陥りやすい人間の怒りと比較するかのように、神の怒りについて語ります。「というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々の あらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです(18節)」17節では「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その 義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです」と言っています。パウロは神の福音には「神の義」と「神の怒り」が啓示されていると言うのです。神の福音は私 たちにとって良い知らせです。にもかかわらず、その中に神の怒りが内包されて啓示されていると言うのですから驚きです。

ドイツのカッテン ブッシュという神学者は「怒り」について研究した人です。彼は「怒りの本質は人格と人格を破壊するもの」と結論しました。神は時に怒ります。なぜなら神は 人格を持っているからです。人間の父親は子どもが誤った道にそれた時に叱り、怒ります。神は人間が神の愛に背を向けた時に怒るのです。神の怒りは神の愛の 発動であり、証であるということです。

神の愛は馬小屋の飼葉桶に啓示されました。その主イエスは人々に拒否され、十字架で殺されました。十字架上の主イエスは、私たちの代わりに父なる神の怒りをその身に受け、私たちの罪を赦すために肉を裂き血を流されました。神はこの主の愛の真剣さを拒否する者に怒るのです。

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近 頃はずっと、この説教要約に添える画像にモノクロのシルエットを使っているのですが、これが「中の人」のもう一人、太郎君に「地味すぎる」と非常に評判が 悪いです。マロとしては割と気に入っているのですが。しかし、あと数回分はすでに画像加工まで終わってしまっているので、しばらくはこのまま参ります。そ の後、方針を変えるかどうかは僕の気分次第と言いましょうか、神様の御心次第と言いましょうか、つまりまだ決めていません。説教って、割と概念的な話が多 いので「びしっ」とハマる画像ってなかなかないのですよね。著作権とかの問題もありますし。むむむぅ。考えます。祈ります。
それではまたいずれ。主にありて。