4月17日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
—————————————
説教要約4月17日「私は福音を恥とはしない」
ローマ1:16~17
パウロは「私は弱さを誇る。なぜなら私の弱いところに神の恵みが完全に現れるからです」と言ったほどの器です。が、その器がこの箇所では「私は福音を誇る」とは言わず、「私は福音を恥とはしない」と言っています。なぜでしょう。
「私 は福音を恥とはしない」とはどういうことでしょう。マルコの福音書に「このような姦淫と罪の時代にあって、私と私のことばを恥じるような者なら、人の子 も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来る時には、そのような人のことを恥じます」とあります。キリストとキリストのことばを恥じるということは それらを「信じない」「信用しない」ということです。同じくパウロの書いた手紙である第二テモテ1章11~12節に「私はこの福音のために、宣教者、使 徒、また教師として任命されたのです。そのために、私はこのような苦しみにもあっています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、 自分の信じてきた方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守って下さることができると確信しているからです」とありま す。パウロはキリストの故に苦しみを受けていますが、それを恥とは思いません。なぜならキリストは常に私に対して、真実で最善をして下さる方であることを 知っているからです。
パウロは十字架と復活について説教しました。ところがユダヤ人達はパウロに「しるし」を求め、ギリシア人たちは「知 識」を求めてそれを無視しました。そんな状況の中で「私は福音を恥とはしない」とパウロは宣言したのでした。それは即ち「私は福音を完全に、絶対的に信頼 している。福音を誇りとしている」という宣言です。「信じるすべての人にとって救いを得させる神の力である」と、福音に絶対の確信をもっているのです。
私 たちはパウロのように、キリストのゆえに苦しみを受ける状況の中にあっても「私は福音を恥とはしない」と福音に絶対の確信を持つことができるでしょうか。 また、神は常に最善であることを確信できるでしょうか。クリスチャンであることを世に対して隠したり、福音を語るべき相手に語らなかったり、といったこと がないでしょうか。そういったことは福音を恥としていることであり、福音に絶対の確信を持つに至っていないということなのです。少しずつでも福音への確信 が強められますように、祈りましょう。
—————————————
この前の日曜 日、教会の前でポケモンGOに興じる人たちがいました。教会が「ポケストップ」に設定されたようです。「せっかく来たなら入って礼拝していけばいいのに」 とちょっと思いました。日曜日の昼間は教会はオープンですので、ポケモンゲットしつつ、礼拝にもお気軽に参加していただければと思います。日曜日以外の日 はセキュリティの都合上、教会の敷地には立ち入らないようにお願いします。
それではまたいずれ。主にありて。