3月6日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約3月6日「この福音」
ローマ1:1~7

パ ウロはかつて神に敵対し、教会とクリスチャンを迫害する者でありました。そのパウロがダマスコ途上で復活の主イエスキリストの顕現に打たれ、主の僕とさ れ、使徒として召され、神の福音によって選ばれた者であるという自覚と誇りを持つに至りました。「この福音」がパウロを主の敵から、主の器へと変貌させた のです。

私たちもパウロのように「わたしはかつてこうであったけれども、今はこのように変えられた」と告白できるなら、それは幸いなことです。そういう人はパウロと同じように、自らを変えた「この福音」を告白し、語ることができるからです。

「こ の福音」はパウロのオリジナルでも理念でもありません。まして彼の研究成果でもありません。2節には「預言者によって語られ」とある通り、これは神自身か らでて、預言者を通して語られた福音であり真理であります。旧約聖書を読みますと、預言書を残したイザヤ、エレミヤ、ダニエルなどの預言者がいる一方、預 言書を残さなかったエリヤやエリシャもいます。アブラハム、サムエル、デボラなどの預言者もいます。預言者は預言書を残す残さざるに関わらず、神の言葉を 預かり、神の約束を告げる使命を委ねられていました。そして民に神の約束を宣べ伝えました。

新約聖書を見ると主イエスは、旧約聖書におい て預言者達が語った約束を「この私である」と弟子たちに解き明かしました。旧約における約束の成就が主イエスキリストであることが「この福音」の真髄であ り、そして弟子たちは「この福音」を初代教会に手渡しました。そして初代教会から脈々と現代に至るまで「この福音」は受け継がれ続けているのです。故にパ ウロの告白する「この福音」はパウロのものでも、遠い昔のものでもなく、今を生きる私たちのものでもあるのです。

パウロは主の顕現に打た れた後、荒野に行き静かな時を持ちました。それからエルサレム教会に行き、主の直接の弟子であるペテロ達から主のことを聴きました。それでパウロは自らを 打った顕現が、間違いなく真実であり、復活の主の存在が間違いのないものであることを確信しました。パウロはコリント人への手紙15章1節において「よく 考えもしないで信じるな」「いたずらに信じるな」と言っています。パウロは「この福音」について、綿密に調べ、考えればそれが真実であることが確実に明ら かになるのだ、と言っているのです。その間違いのない「この福音」を受け取り、己のものとすれば、「この福音」に導かれ、間違いのない人生を私たちも歩む ことができるのです。

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連日更新していると、こ の欄外に書くこともあまりなくなってくるわけです。こっそりブラックジョークでも書いちゃおうかとか思うのですが、やっぱり怒られるかなぁ。「敬虔な不信 者よりも、不敬虔な信者であれ」と昔、誰かに言われました。至言だと思います。と、いうわけで時々不敬虔なことを書くかも知れませんがあしからず。
それではまたいずれ。主にありて。