2月28日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約2月28日「パウロの自己認識」
ローマ1:1
ロー マ書はパウロがローマの教会に宛てて書いた短い手紙です。当時、ローマは世界の商業、経済、政治、教育、あらゆる分野の中心であり、「すべての道はローマ に通ず」と言われたほどでありました。アレキサンダー大王が小アジアを征服し、地方によってまちまちであった言語をローマ語に統一しました。また、制服範 囲内のあらゆる道をローマに繋がるように整備しました。その結果、ローマにおいて福音を聴いてクリスチャンになった者がその道を通ってそれぞれの地域に 帰って福音を語る者となりました。アレキサンダーの整備した交通網によって、福音が全世界に拡大する道が開かれたのでした。アレクサンダー自身はクリス チャンでもなく、神の器ではありませんが、神は彼を用いてご自身の計画を進められたのです。このようにローマの教会は、小さくはありながらも、福音の拡大 の要となる非常に重要な教会でした。その教会に書き送られた手紙がこのローマ書だというわけです。
その冒頭の一節は「パウロ、イエスキリ ストの僕、召された使徒、神の福音のために選ばれた者」です。パウロは開口一番に「私はイエスキリストの僕です」と自己紹介しているのです。これがパウロ の自己認識の本質です。パウロはローマ市民であり、学者であり、国会議員でもありました。その様々な肩書きを持つパウロが「私はイエスキリストの僕です」 と一番に告白している所に大きな意味があります。パウロはその世俗の様々な肩書きにより、世俗的には最高の幸福を約束されていました。しかし一方で、心の 内側では「自分のしたいと思うことができない。むしろ、してはいけないことをしてしまっている」という心の葛藤に苦しみました。パウロは、人間は何かに仕 える存在である、ということを知っていました。彼は外側では地位と名誉に仕え、内側では罪とエゴに仕える者でありました。しかし、あのダマスコヘの途上で のできごとによって、主イエスの顕現に打たれ、赦されて神の僕となりました。そのことにより、彼は地位、名誉、罪、エゴに仕える身から解放され、内も外も 主イエスキリストに仕える者と変えられました。そのことを宣言し、告白しているのが、このローマ書の最初の一節であるわけです。
私たちもパウロのように主イエスキリストの僕とされ、使徒と召され、神の福音のために選ばれた者です。そのことをパウロのように誰に対しても開口一番に宣言できるようにありたいものです。
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何かと話題のあの都知事とうちの渡辺牧師とは髪型は似ていますが何 ら関係はございません。しかし上馬教会は東京都の認証を受けた宗教法人であり、諸々の書類を提出すると押されるハンコや署名はあの知事のものであったりし ます。あんまり良い気はしません。うちの教会が東京都に提出している決算書類はまったくもって嘘偽りのないもので、違法でもありませんし、不適切でさえあ りません。公明正大にやっております。髪型は似ています。
それではまたいずれ。主にありて。