1月31日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約1月31日「苦難の意味」
IIテサロニケ1:5~12

「苦 難に何の意味があるのか」このテーマは太古から問われ続けてきた、とても古く、それでいて常に新しい問いです。人はしばしば人生における苦難の意味につい て自問自答します。医療や福祉関係者の中に時々、旧約聖書のヨブの苦難を引用してこの問題について説明しようとする人を見かけます。しかし、その多くはヨ ブ記の文脈と神学からかけ離れた内容です。

牧師などの説教者もこのテーマについてよくヨブ記から語りますが、今回はこのテサロニケ人への 手紙から、このテーマについて語ってみます。パウロは今日のこの箇所で「苦難の意味」について語っています。テサロニケ教会は迫害と苦難の中で忍耐しなが ら信仰を保ち、愛の業を行うまでに成長しました。しかし中には怠惰な生活に陥る者もでてきました。それは「いつまでこの苦難が続くのか」と思った人たちで した。私たちも長い間、苦難の中にいると心も身体も疲弊してしまいます。そんな人に対してパウロは「このことは、あなたがたを神の国にふさわしい者とする ため、神の正しい裁きを示すしるしであって、あなたがたが苦しみをうけているのは、この神の国のためです」という答えを与えました。苦難とは人を「神の国 にふさわしいものとするため」に神が与えるものである、とパウロは言うのです。

私たちにとって、苦難はない方が良いに決まっています。し かし「あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知の通り、はたして事実となったので す」とパウロが言った通りに、私たちもまた苦難にあいます。パウロはローマ書ではこういっています。「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たち がキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストの共同相続人であります」。

キリ ストに結びついた者はキリストの相続人であり、栄光と苦難をともにするものなのです。私たちが苦難を受けるのは、同時に栄光をも受け取ることの証拠です。 神は私たちを、苦難を通して神の国の民にふさわしい者として下さいます。主イエスの名が私たちを通して崇められ、私たちは主にあって栄光を受けるのです。
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GW が近づいてきました。皆様、何か楽しい計画をしているのでしょうか。一番長く休みを取ると、今年は9連休になるそうです。9日間のうち日曜日は2回もあり ますから、この機会にお近くの教会の礼拝に出てみるのはいかがでしょうか。上馬教会ではGWも日曜日の礼拝は休まず営業しております。他の教会もだいたい そうだと思います。
それではまたいずれ。主にありて。