1月24日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
—————————————
説教要約1月24日「しかし、勇敢でありなさい」
ヨハネ16:25~33

「勇 敢でありなさい」この言は他の訳の聖書では「勇気を出しなさい」となっています。主イエスは今、私たちに「勇気を出しなさい」と仰っているのです。この言 は主が十字架にかかる直前に弟子たちに語った言です。人生最後の言、辞世の言ということです。「人のまさに死なんとす、その言やよし」と中国の古典にもあ るように、私たちは相手が誰であってもその人生の最後の言葉を重い言葉として受け止めます。ましてこの言は私たちの主であるイエスキリストの人生の最後の 言葉です。特に重く受け止めたいと思います。

私たちには常に勇気が必要です。自分を失わず、自分自身であり続けるためには勇気が必要で す。その勇気を完全に失ってしまえば、人は自死してしまいます。生きるだけで勇気は必要なのです。人生においては、誰もが傷付けられたり不愉快な体験をし たりします。そんな時、それに耐えて明るく生きることも勇気です。まして現代は決して明るい時代だとは言えません。世の中は、貧困、家庭の崩壊、自死率の 増加、教育の問題、医療の問題、政治経済の問題など、それに立ち向かって生きるには勇気が必要な問題に満ちています。

そんな私たちに主は 「勇気を出しなさい」と言います。その言の前に「しかし」という言がついています。それは人間が苦難に弱い存在であり、現実は人間には厳しいものであるこ とを、主が知っていることの証です。現実は厳しい、人間は苦難に弱い、しかし、勇気を出しなさい、なぜなら「私はすでに世に勝っている」のだから。と、こ ういうロジックで主は語りかけます。この言は24節の「祈りなさい・・・あなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです」に結びついています。本物の勇 気は祈りと結びついているということです。

「勝利」と「平安」は同源の言葉です。真の勝利者には必ず平安があります。逆に言えば、平安が なければ真の勝利者ではありません。「チャンピオン」とは元々、何かのため、誰かのために戦う者のことです。あなたのために戦ってくれる存在、それがあな たにとってのチャンピオンです。私のために戦い、私に平安を下さる方、それが私にとってのチャンピオンです。そしてそのチャンピオンとは言うまでもなく、 主イエスです。主の勝利に信頼し、慰めを受け、平安を得ること。それが勇気です。なぜなら人は安心できると元気が出ます。安心できると立ち上がれます。故 に平安を得ることは勇気と同義なのです。

勇気は平安な祈りの中にあります。そして祈りには勇気が必要です。祈りが勇気と平安のスパイラル を生み出すのです。即ち、「勇敢でありなさい」「勇気を出しなさい」とは「祈れ」ということなのです。困難を前にして、私たちは時として前に進む勇気を 失ってしまうことがあります。しかし、そんな時に本当にすべきことは無理に立つことではなく、祈ることなのです。困難を前にして主の勝利に信頼し、祈るこ とができるなら、それこそが真の勇気であり、それができる人は主によって真の勝利者とされるのです。
—————————————
友 人のボクサーが昔、言っていました。「殴られるのが怖くない奴は強くなれない。怖いから強くなる」と。怖いもの知らずが勇気ではないのですね。怖いものを 認めて、それを克服することが勇気です。クリスチャンには祈りこそが何よりの武器ですから、祈ることが勇気です。それではまたいずれ。主にありて。