1月10日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約1月10日「恵みと平和が教会に」
Iテサロニケ5:23~28

今 日の箇所はテサロニケ人への手紙第一の締めくくりです。この手紙は「恵みと平安が、あながたがにあるように」というパウロの祈りで始まっています。そして 今日のこの締めくくりでは「私たちの主、イエスキリストの恵みが、あなたがたと共にあるように」とあります。主は「平和の神(5:23)」ですから、この 手紙では最初と最後で同じ祈りがなされているのです。これは祝祷の言でもあります。

パウロの願いは教会が神様の恵みで満ち、平和な歩みが 与えられることです。27節には「この手紙がすべての兄弟達に読まれるように、主によって命じます」とあります。この「命じる」はギリシア語で「エルオキ ゾー」という語で、新約聖書ではここ以外に用いられていません。意味は「厳命する」「懇願する」で、これ以上なく強い言葉です。パウロは最も強い言葉を用 いて「この手紙をすべての兄弟達が読むように」と命じているのです。それは即ち、テサロニケ教会の人々だけに留まらず、現代の私たちにも同じことが命じら れているということです。

パウロが強く命じている歩み方とはどのようなものでしょうか。パウロは「お互いの平和を保ちなさい」と言ってい ます。そのために「気ままな者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」と言っています。私たちが平和を保つために はそれらのことが欠かせないということです。励まし、助け、寛容であること。これらのことに私たちは問題は感じないでしょう。しかし、最初の「戒め」はど うでしょうか。人から戒めを受けるとつい感情的になってしまったり、抵抗を抱いたりしてしまうものではないでしょうか。それは時として、平和を保つ行為と いうよりも、平和を乱す行為だとみなされたりしないでしょうか。特に日本人は互いに戒め合うことを避けたがる傾向があります。しかしパウロは「戒めなさ い」と言います。戒めは愛の行為だと言います。

それはどういうことでしょうか。神の御心は主の民が聖くなることであり、罪に定めることで はありません。「あなたがたを召された方は真実ですから、そのことをして下さいます」と書いてあります。私たちを召した方の真実によって、私たちは恵みと 平和を保つことができます。私たちは「私を聖なる者として下さい」と祈って良いし、祈るべきです。世界や家庭の平和、即ち外側の平和を望み、祈るなら、そ れよりも先に己の内側の平和を望むべきです。そうすればその内側の平和が外側の平和をももたらすことでしょう。
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僕 は我ながら上馬教会の中でも「気ままな者」な方なので、というかたぶん一番気ままな部類な者なので、たくさんの戒めが必要ですし、実際に戒められてもいま す。でもそれで心の平和が乱されることはありません。教会以外での「戒め」には正直少しムッとしてしまうこともあるのですけれど、教会での「戒め」にはむ しろ安心感を覚えたりなんかします。不思議だなーと思っていたのですが、今回の説教を聴いたら腑に落ちました。これも神様の守りだったのですね。ありがた いことです。それではまたいずれ。主にありて。