1月3日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約1月3日「歩み続けよ」
Iテサロニケ4:1
新 しい年を迎えました。今年最初のメッセージは「歩む」ということをテーマにします。「歩む」という行為は継続性を伴います。歩みとは常にある一点から次の 一点への移動を示すからです。歩みにはそして「出会い」が不可欠です。出会いがなければ継続性が生じません。歩みは常に次の一点との出会いであるからで す。
クリスチャンの歩みに必要な出会いとは、言うまでもなく主との出会いです。主との出会いは一度だけではなく、日々、起こり続けている ことなのです。パウロは今日の一節において、3回も「歩む」という言葉を使っています。パウロによれば、主との出会いによって始まった歩みは点ではなく線 であります。人間にはなし得ない、理解もできない、そういう領域に触れることが主と出会うことです。そしてその出会いにより、人は人知を遥かに超えた恵み を知ります。主イエスは病人に「立って歩きなさい」と言いました。私たちは全存在をもって福音を携え、信仰の歩みをなさなければいけません。それが主の求 めることです。それがクリスチャン生活であり、教会生活です。
テサロニケ教会の人々がパウロから学んだことは「歩む」ということでした。 そしてその「歩む」は「神を喜ばせること」でした。テサロニケ教会の人々はパウロからたくさんの神の言葉を聞きましたが、この「聞く」は原語のギリシア語 では「アクオー」という言葉で、「聞き従う」という意味です。「聞く」だけでなく「従う」の意味まで含んでいるのです。故にテサロニケ教会の人々は単にパ ウロの言葉を聞くだけではなく、その言葉に従ったのでした。「聞く」とは「従う」ことであり、「従う」ことなしの「聞く」は、そもそも聞いていないのと同 じなのです。
ところで、現在の教会でも、洗礼を受けることを躊躇する求道者の方は少なくありません。彼らがよく口にするのは「聖書や教会 についてまだまだ知らないことが多いので、十分に知ってからにします」ということです。しかし、すでに洗礼を受けたクリスチャンの中に、十分に知ってから 洗礼を受けた人がいるでしょうか。2000年の教会と信仰の歴史を十分に学び、理解して洗礼を受けた人がいるでしょうか。そんな人はいません。アンセルム スという神学者は「知るがために信じる」と言いました。「信じるために知る」のではありません。「知るために信じる」のです。洗礼を受けてから初めて分 かってくる聖書と信仰の世界があります。これも一つの「歩む」という継続性なのです。信じることなしに主と出会うことはなく、信じることで主と出会い、教 会と生活を共にすることで、主と出会い続けることができるのです。洗礼はゴールではなくスタートであり、それは一点の儀式ではなく、継続性を持つものなの です。
人は皆、神様の作品です。それぞれの目的を持って作られています。そして各々が与えられた能力や特性はその目的にぴったりです。個 性や性格もそれにふさわしく備えられています。それなのに「自分は足りない」と言うことは謙遜ではなく、むしろ傲慢です。人が思うよりも、考えるよりも、 神様の業はそれを遥かに超えます。考えもしない、思いもよらない道が、私たちには神によって供えられています。その道は点の信仰ではなく、線の信仰により 開かれるものです。
新しい一年に新しい何かを始めることは悪いことではありません。しかし、もっと大切なことは、これまで行っていたことを、ますます続けて行うことです。洗礼の日から今日まで歩んできた道を、また今年も同じように確信をもって力強く歩み続けることです。
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2 月も半ばを過ぎてしまいましたが、ようやく今年最初の説教の要約です。非常に遅れてしまって申し訳ありません。去年行っていた歩みを途切れさせてしまいま した。日々、継続してたんたんと「歩む」ことの力強さと素晴らしさを痛感させられます。遅れているとはいえ、この説教要約のコーナーを途絶えさせることな く、細々とでも継続しなければな、と思います。なるべく早く、遅れを取り戻すつもりでいますから、待っていて下さいね。それではまたいずれ。主にありて。