12月6日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈を
している場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約12月6日「目を覚ましていなさい」
Iテサロニケ5:1~12

パ ウロは今日の箇所で「目を覚ましなさい」ではなく、「目を覚ましていなさい」と語っています。テサロニケ教会の人々は信仰と愛と希望に満ちて生きていまし た。コリント人への手紙の「信仰と希望と愛」という言葉は有名ですが、このテサロニケ人への手紙では「信仰と愛と希望」と順番を変えた表現がなされていま す。パウロはコリント教会には愛を、テサロニケ教会には希望を強調して語っているのです。

テサロニケの教会は再臨の主にお会いする希望に 生きた教会でした。彼らは主の再臨を今か今かと待ち望みました。しかし、それはなかなか訪れません。彼らはそこで不安を覚えたので、聖書を良く調べて再臨 の時がいつかを知ろうとしました。非常に正確に、綿密に調べたので彼らは信仰の知識については、何も付け加える必要がないほどになりました。しかしパウロ は「いつなのか、どういう時かについては、あなた方は私たちに書いてもらう必要がありません」つまり「それは知る必要がない」と書きました。現代でも多く の異端や異教が主の再臨の日を人の知恵によって予言しますが、それが当たった試しはありません。再臨の時は人の知恵では計り得ないものです。それは、「知 識が不要だ」と言っているのではありません。知識はもちろん必要なものです。しかし本当に大切なのは知識そのものではなく、その知識を自分の生活に適用 し、生かしていくことです。私たちも日々聖書を読み、時には関連書を読んで勉強しますが、それが知識や教養に留まっているうちは、生きた力にはなりませ ん。それが信仰と生活に結びついた時に大きな力になります。

再臨がいつかを知ろうとすることの代わりに「他の人のように眠っていないで目 を覚まして、慎み深くしましょう」と勧めています。知識や教養は、人の業でしかありません。人の業である以上、人が眠れば知識も眠ります。眠っている間に 知識を語ることのできる人はいません。しかし、知識が信仰と結びついていればそれは人の業ではなく、神の業です。神の業は眠ることがありません。「目を覚 まして」というのは、もちろん物理的に眠らないことを求めているのではありません。肉体が眠っていても、信仰が眠らないようにしなさい、と勧めているので す。知識を知識のままにしておくのではなく、それを信仰と愛と希望に置き換えるように、と勧めているのです。そうすれば私たちは常に目を覚ましていること ができ、いつ再臨が訪れても慌てたり取り繕ったりせずに、堂々と主を迎えることができるのです。泥棒が家に入ってくるのは夜です。眠りは隙なのです。眠ら ないでいれば泥棒は入れません。また、「慎み深く」というのは実は「酒に飲まれてはいけません」という意味です。古来から戦争で城を落とすための定石の一 つが、敵を酒に酔わせてその隙に攻め込むという戦法です。過度な酔いは眠りと同じく、大きな隙になるのです。しっかりと信仰の目を開いていなければなりま せん。

「あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい」とパウロは励ましています。これは聖書の知識を 生活に適用させた時に初めてできることです。知識を知識のままにしておいたのではできないことです。私たちにも、同じことが求められています。主の再臨の 希望に固く立ち、互いの徳を高め、励まし合って歩むことです。それが主の求める「目を覚ましていること」なのです。
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冷たい雨のアドヴェント第三週。みなさま風邪なんかひいていませんか。来週はいよいよクリスマスですからね、風邪をひいちゃった方は早く治し、ひいていない方はその調子で、みんな元気に主の降臨を喜び合っちゃいましょうね。

それではまたいずれ。主にありて。