12月13日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈を
している場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約12月13日「キリストが望んでいること」
Iテサロニケ5:12~22

テ サロニケ人への手紙5章で、パウロは4回も「兄弟たち」という呼びかけをしています。これはパウロがテサロニケ教会の人々に期待をかけていることの現れで あり、ひいては、主イエスキリストが私たちに期待をかけていることの現れでもあります。その期待とはなんでしょうか。それは主は私たち一人一人を主の働き のために用いたいと思っているということです。その期待故に、神様は私たちクリスチャン一人一人に訓練のプログラムを用意しています。その訓練は時に厳し く、私たちはそこから逃げ出してしまうこともあります。しかし、そこから逃げずに受け止めることで私たちは整えられ、主のための働き手となってゆくので す。テサロニケの教会には「きままな生活」をしている人たちがいました。それは言い換えると、神様の期待に応答して生きることができない人たち、というこ とです。そういう人たちに対してパウロは「兄弟たち」と呼びかけて応答を求めたのでした。

「いつも喜んでいなさい」「絶えず祈りなさい」 「すべてのことについて感謝しなさい」この三つを「これが、キリストイエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」と、パウロは明言していま す。しかし、これは非常に難しいことです。それは決して人間の理性や努力の枠内で達成できるものではありません。それは主の与えて下さる無限の泉に与って 初めて達成できることです。主イエスはサマリアの女に井戸の傍らで「この水を飲む者はまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は永遠に渇くことがない」と おっしゃいました。その「永遠に渇くことのない水」を主に与えていただくことが大切なことなのです。それは常に主とともにあれ、ということであり、その主 の臨在は祈りによってのみ感じられるものです。具体的に祈ることなしに神様の臨在や導きを感じることはできません。

パウロはただ「祈りな さい」ではなく、「毎日祈りなさい」でもなく、「絶えず祈りなさい」と勧めています。これは良い時も悪い時も常に祈り続けなさいということです。良い時に 感謝の祈りを捧げることは易しいことです。しかし悪い時にも良い時と同じように祈る、これは非常に難しいことです。しかし、よく考えてみれば、何もかもが 上手くいく、自分の思い通りになる人生なんて、良い人生ではありません。苦難や悩みを越えることで人は成長します。故に苦難や悩みを与えられている時こそ 感謝すべきなのです。マリアの受胎告知は取りようによっては一種の受難とも言えるものでした。しかし御使いはそれをマリアに告げる時に「おめでとう」と言 い、マリアもそれを感謝して受け入れました。

私たちは自分の願いが叶った時に「祈りが聞かれた」と喜ぶ一方で、そうでない時は「祈りが聞 かれなかった」と失望してしまうことが多いものです。しかし、そこで失望してはいけません。祈りとは、時に聞かれない時にこそ聞かれているものだからで す。このことが分かると「すべてのことに感謝しなさい」の境地が見えてきます。そのためにパウロは「御霊を消してはなりません」と言っています。御霊とは 聖霊であり、聖霊は「仕える神」です。私たちに仕え、助け、支えて下さる神です。聖書には聖霊が怒る、という描写は一つもありません。しかし「悲しませて はならない」と書いてあります。祈りとは聖霊を用いることであり、喜ばせることです。聖霊は自ら語ることはありません。問いに応えて下さるのみです。祈ら なければ動かないのです。絶えず祈り、御霊に導かれる人生を歩むようにパウロは勧めており、それが主イエスキリストの望むことでもあるのです。
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ア ドヴェント第四週。クリスマス礼拝を迎えました。世間では12月24日のクリスマスイブや25日のクリスマスに盛大なお祝いをしますが、教会ではその直前 の日曜日のクリスマス礼拝で盛大なお祝いをします。今年も非常に恵まれた礼拝となりました。クリスマスイブには19時からキャンドルサービスが行われます ので、皆様ぜひ教会に足をお運び下さいませ。

それでは、よいクリスマスを。主にありて。