11月8日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約11月8日「パウロの熱望と心の痛み」
Iテサロニケ2:17~20

テサロニケ教会はパウロの熱心な伝道の結果として生まれ、模範的な教会として成長しました。パウロにとって、テサロニケ教会の人々は「霊的な子ども」と言ってよいほどの存在でしたから、パウロは長くテサロニケに留まりたいと願いましたが、サタンの妨害により、敵対する者たちが争乱を起こしたので、この地を去らざるを得なくなりました。そのことをパウロは17節で「引き離された」と表現しています。これは原語を辿りますと「親と子が引き離される」「子が親をしたって泣き叫ぶ」という意味を持つ言葉です。パウロはまさに心を引き裂かれるような思い、断腸の思いでテサロニケを離れたのでした。パウロはさらに同じ17節で「引き離された ~と言っても顔を見ないだけで心においてではありませんが ~」と記しています。身体はローマにあっても、心はテサロニケ教会のあなた方と共にある、と強調しているのです。

つまりパウロは文字通りテサロニケ教会のために祈り続けていたのです。こういう関係が成立していて初めて真に「あなたのために祈っています」と言えるのです。私たちクリスチャンはつい気軽に「あなたのために祈っています」と口にしがちですが、これは決して社交辞令として口にして良い言葉ではありません。特に牧師にとってはそうです。神に委ねられた民に責任を持たなくてはなりません。それは信徒でも同じです。神に委ねられた人に責任を持たなくてはなりません。

パウロは18節では「一度ならず二度までも再び訪れようと心に決めた」と記しています。しかしその訪問計画も、またしてもサタンによって妨害されました。サタンは教会に介入してその働きを妨害します。それが良い働きであればあるほど、強く攻撃し、妨害します。私たちも、教会の歩みや自身のクリスチャンとしての歩みを振り返れば、少なからずこの悪魔の妨害を経験しています。この妨害に対抗する術は祈り以外にありません。私たちは神に仕える働きをするならば、決して祈りの手を下ろしてはならないのです。

パウロはサタンの妨害に遭い、祈った上で「私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのは誰でしょう、あなたがたではありませんか。あなたがたこそ私たちの誉れであり、また喜びなのです」という愛の手紙をテサロニケに送りました。パウロのこのメッセージは時も場所も越えて、現代のすべての主にある教会に向けられるものです。そしてそれはもちろん、パウロが言うだけでなく、主イエスがそう言っているのです。「あなたがたこそ私の望み、喜び、誇りの冠なのだ」と。

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雨降りですね。毎年、礼拝の出席者数の統計をとっているのですが、雨の日は出席者数がやっぱり少なめになります。「雨だとかったるい」というのもあるでしょうが、それよりも雨の日は体調を崩しがちだからという方が理由としては大きいのだと思います。この時期の雨は冷たいですし、雨の度に気温も下がって冬に近づいていきますから、身体を冷やさないように皆様お気をつけ下さいませ。

それではまたいずれ。主にありて。