11月1日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約11月1日「味方なる神」
ローマ8:31~39

今日は主に召された方々を覚える記念礼拝ですから、いつものテサロニケ人への手紙から一旦離れて、ローマ人への手紙から、神の言を聴きます。

今日の箇所で重要なのは31節です。ここには「では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう」と書いてあります。クリスチャンに与えられた神の恵みと祝福を表すのにこれ以上の言はありません。クリスチャンの生涯は様々な苦難、挫折、失敗、危機に満ちたものです。しかし神が私たちの側にいて下さるなら私たちは微動だにしない、ということです。

かつて私たちは神から離れ、神と敵対する者でした。その私たちのために神は御子イエスを救い主として世に遣わし、十字架で殺しました。そしてそのイエスを信じ従う者の味方となり共に歩んで下さると約束して下さいました。

私たちの人生において、一番の敵はあの人でもこの人でもなく、自分自身です。私たちは真っすぐに歩みたいと思っても横道にそれてしまいます。重荷に耐えるつもりでいても耐えきれずに逃げ出してしまうこともあります。時には「クリスチャンのくせに~~していいのか」「クリスチャンは~~すべきでないのか」と外から訴える者もありますし、さらには自分自身が内側から「クリスチャンとしてこれでいいのか」「クリスチャンはこうあらねばならないのに」と訴えることさえあります。しかしクリスチャンは完全ではありません。赦された罪人でしかありません。故にどうしても罪を犯すのです。

ここで注目すべき言があります。「だれ」です。この言は今日の箇所の中で4回も出て来ます(31、33、34、35節)。パウロは言います。「神に選ばれた者を訴えるのはだれですか」「罪に定めようとするのはだれですか」「私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか」と。私たちが他者や自分自身からどんなに訴えられようとも、神が私たちの味方である以上、だれも私たちに指一本触れることはできないのです。

主にあって召された方々も、この恵みによって歩み、地上の生涯を終えたのです。
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近頃、月に一度は仕事で礼拝に参加できなくなってしまったのですが、そのおかげで以前よりも礼拝のありがたさを痛感するようになりました。「来週は礼拝にいける!よし( ・ิω・ิ )b!」と嬉しく思えるようになりました。その分、行けない週は「しょぼーん( ・ิω・ิ ;)」とした気分になってしまうのですが。来週はその「行けない週」なので、今はちょっと「しょぼーん( ・ิω・ิ; )」な気分です。でもね、神様は日曜日だけでなく、他の曜日だってフル稼働で僕らを愛して下さっていますからね、今週も元気にまいりましょ。ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/