10月25日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約10月25日「いのちまでも」
Iテサロニケ2:7~12

パウロはテサロニケ教会の人々のために「神の福音だけではなく、私のいのちまでも、あなたがたに与えたいと思った」と言っています。これは衝撃的な言葉です。なぜなら、パウロが「自分の命までも与えたい」とまで思うほどに、人間世界には深い心の闇があるということだからです。

人間の心の深淵を探り、病んだ心の治療をするのが精神医療です。その手法の一つとしてカウンセリングがあります。また、「スピリチュアル・ケア」と称して(本来の意味でのスピリチュアルとは異なるのですが)霊的な世界を取り扱おうとする人々もいます。現代社会でもこれらに対するニーズは高まるばかりです。それほど人の心に深い闇があるということです。パウロは、人々のうちにある、自分のいのちさえも与えなければ埋めることができないほどの心の闇を見つめていたのです。もちろん、一方でパウロは赦されることのない人間の深い罪の世界をも見つめていました。だからこそ「ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも」と語ったのです。

健全に、順調に成長しているテサロニケ教会に対して妬みを覚えた人々がいました。彼らはテサロニケ教会の悪い噂を広めました。特にパウロについて「宗教的な怪しい商売をしている」という噂を流しました。そこでパウロは誤解を避けるために「私たちはあなたがたのだれにも負担をかけまいとして、昼も夜も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えた」のでした。さらにパウロは「へつらいの言葉を用いたり」「むさぼりの口実を設けたりせず」に伝道しました。ここにパウロの苦悩があります。パウロは真実が真実として人々に伝わらないことに対して苦悩を感じていました。私たちも伝道において「あの人にもこの人にも福音を伝えたけれども、事実が事実として受け入れてもらえない」と、悩み祈ることがあります。その点ではパウロと同じ苦悩を私たちも負っているということです。そしてこの苦悩は主イエスも負っていたものでした。「ご自分の国に来られたが人々は受け入れなかった」とヨハネ福音書の1章に書かれている通りです。その結果、主イエスは十字架で命を失いました。真実が真実として受容されないからこそ「いのちまでも」の覚悟が必要なのです。

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11月になりました。上着を着ないとそろそろ寒い時期です。ついこの前までは暑さにうだっていたというのに。聖書を読んだりお祈りをしたりするには、いい気候だなと思います。僕は外を歩きながら祈るのが好きです。花を見たら「花が奇麗です神様」と祈り、風が吹いたら「風が冷たいです神様」と祈り、歩き疲れたら「少し疲れました神様」と祈る。ボストン時代にお世話になった大先輩のクリスチャンはそういう時間を「イエス様とのお散歩」と呼んで大切にしていました。みなさんも、もし良かったら試してみて下さい。それではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/