10月18日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約10月18日「最も困難な課題」
Iテサロニケ2:7~13
私たちクリスチャンにとって最も困難な課題は、伝道したり証をしたりすることではなく、人間が語る神の言を神の言として受け入れることです。この課題は2000年の歴史を通じて教会の課題であり続けています。
神学者カール・バルトはこの課題に苦しんだ器でした。彼は田舎の教会で牧会をしながら「人間はいかに神の言を語ることができるか」と葛藤しながら苦しみました。その厳しさと重圧に押しつぶされそうになりながら、彼は逃げずに立ち続けました。
パウロが伝道旅行をしているとき、アテネの哲学者たちはパウロをアレオパゴスに連れて行きました。そしてパウロに「あなたの語っているその新しい教えがどんなものであるか、知らせていただけませんか。私たちにとっては珍しいことを聞かせて下さるので、それがいったいどんなものであるか、私たちは知りたいのです」(使徒の働き17:20~21)と言いました。彼らはパウロの説教を「新しい教え」「珍しい話」と捉え、それを語るように要求したのでした。パウロは十字架、復活、再臨についてかたりました。アテネの人々はそれを聞いてあざけ笑って「このことについてはいつかまた聞くことにしよう」と言って帰っていきました。いつの時代も神の言を神の言として受け入れることは最も困難な課題であることが分かります。
しかしテサロニケの教会の人々はパウロが語る説教を「事実どおり神のことばとして受け入れた(13節)」のです。そして「神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いていた」のです。この世にどうしてクリスチャンが存在するのでしょうか。それは、人間が語る神の言を事実通り神の言として受け入れた人々が存在したからです。そして、そこに教会が誕生したのです。
しかし、教会にはさらに困難な課題があります。聖餐です。沈黙し続けている「パンと葡萄酒」です。信仰のない者にとってはそれはただのパンと葡萄酒であり、無味乾燥なものです。その聖餐に与るとき、沈黙の中に十字架のメッセージを聴くことができる者は幸いです。教会とは、もっとも困難な課題を神の助けによって受け入れることができた者の共同体なのです。
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先日、お茶を飲みながら「牧師の話を聞きたがる人、ありがたがる人は多いけれども、その話から信仰に至る人は少ない」という話を渡辺牧師から聞きました。「ありがたい話」「いい話」とは思うけれども、なかなかそれを事実として受け入れるのは難しいのかも知れません。この説教要約を一人でも多くの人が「神の言」として受け入れて下さいますように。ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/