10月4日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約10月4日「心の奥底をサーチする」
ルカ15:11~24

今回は伝道説教ですから、いつものテサロニケ人への手紙から離れて、ルカの福音書の大変に有名な「放蕩息子」の箇所から神の言を聴きます。この箇所の内容について、かの文豪、芥川龍之介は「放蕩息子の話は最高の短編小説」と評しました。それほどの内容であるということです。

「放蕩息子」の家族は父、兄、弟の三人家族です。この弟が父親に「自分の分の財産を下さい」と、現代で言う相続の生前分与を要求しました。当時のユダヤ社会の財産分与規程では「兄は二倍、弟は半分」でした。つまりこの弟は父親の財産の三分の一を自分の取り分として求めたのでした。当時の財産は農地と家畜でした。当然、弟が求めたのも農地と家畜でした。父親はこの要求を受け入れ、弟はこれらの財産をすべて現金に換えて、他の何もかもを捨てて家を出て行きました。弟は家族との関係をすっぱりと断ち切ってしまったのです。そして、外の世界には自由と幸せがあるはずだ、と思い込んで遠い国へと旅立ったのでした。

人間の生にはビオス(生理的生命)とゾーエー(人格的生命)があります。弟はゾーエーを捨ててビオスのみの状態で歩き始めたのです。ゾーエーを失った生き方は深い孤独感と孤立感を伴います。このことについてナーウェンは「現代の一番の苦悩は孤独である」と指摘しています。アメリカ社会はこの深い孤独を解決するために、様々なパーティを企画しています。しかし、それらのパーティに参加した人の多くは悲しみと虚無感を味わいながら家路につくといいます。日本人も同じでしょう。心の奥底に深い孤独と孤立感を抱えながら生きている人々の何と多いことか。

弟は遠い国で放蕩三昧に暮らし、相続した財産を使い果たしてしまいました。さらにそこに大飢饉が訪れ、彼はいよいよ食べるものにも困るようになってしまいました。その時、それまでその遠い国で彼をとりまいていた様々な人間関係が表面的なものでしかなかったことが露呈してしまいました。お金があるうちは彼の周りに集っていた人たちも、彼にお金がなくなった今、誰も彼を助けようとはしませんでした。側に寄り添ってくれる人もいませんでした。自分の意志で家を出た放蕩息子は人の意志で捨てられ、豚の世話をし、豚のエサのイナゴ豆を食べて空腹を満たすような生活にまで落ちぶれてしまいました。

財産という言葉は「本質」「存在」という意味を持ちます。財産を粗末にした弟は即ち、自分の本質や存在を粗末にしたということなのです。彼がなくしたのはお金だけではなかったのです。自信や自尊心などまで失ってしまったのでした。そこで彼は本心に立ち返って、父親に謝罪し、父親の元に返りました。父親は彼を暖かく手厚く受け入れ、最高のもてなしをして喜びました。これが神の愛の姿です。

私たちは罪によって、自分の本質や存在を傷付けてしまいます。時にどうしようもないほどの自己嫌悪に苛まれることもあるでしょう。自分はもはや誰にも受け入れてもらえない存在だと思ってしまうこともあるでしょう。しかし、神の愛の下にある私たちには最終的に帰る場所が与えられています。どれほどの罪を犯したとしても、その罪を悔い改めて神の下に頭を垂れる時、神様はこの父親のように暖かく手厚く私たちを受け入れ、最高のもてなしをもって喜んでくださいます。

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前回、次の更新は10月末になってしまうと書きましたが、幸いなことにこの前の日曜日は用事をすませた後、夕方に教会に寄ってお祈りだけでもすることができました。そのおかげで今日、更新ができています。ありがたいことです。礼拝に出ることができなくても、日曜日に教会に行ってお祈りできるだけで、ずいぶんと心は満たされるものです。「教会に行ってみたいけど、礼拝の時間にまにあわない」という方もいるかも知れません。そんな方は遅れてでも良いですし、礼拝が終わってからでも良いですから、とりあえずまず教会に来てみてください。それだけでも得るものはたくさんあると思います。もちろん、礼拝に参加するのが何よりではありますが。ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/