9月27日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約9月27日「無駄ではなかった」
Iテサロニケ2:1~4

パウロはテサロニケ教会の成長と信仰の姿を見て、神に感謝しています。苦しみに会い、辱めを受け、激しい苦闘をしながら大胆に神の福音を語った己を想起し、「無駄ではなかった」と明言しています。

私たちは苦しみや辱め、激しい戦いを目の前にすると、つい逃げ出してしまいがちなものです。しかしパウロは逃げずに福音を語りました。勇気をもって神の福音を語ったのです。パウロの語った福音は世の福音ではなく、神の福音です。パウロは己を「神に認められ、福音を委ねられた者」と語っています。パウロが苦しみから逃げずに語り続けることができた秘訣はここにあります。語るのはパウロ個人ではなく、神と繋がった自分である、という確信があったからこそ、大胆に語ることができたのです。パウロは激しい苦闘の中で神の福音を語り、それを「無駄ではなかった」と総括しました。それは言い換えれば「恵みであった」ということです。

私たちは教会で皆それぞれ奉仕を担っています。それはそれぞれ「神の信任を受けて」いるものであることを忘れてはいけません。それを忘れてしまうと一つ一つの奉仕が「やらされている」ものと感じられ、不平不満を抱くようになってしまいます。私たちの奉仕も不平不満で終わるものではなく、「恵みだ」と総括できるものでありたいものです。

ここで主イエスの生涯に目を転じてみましょう。主はそのご生涯の中で実は一度も「恵み」という言葉を語っていません。「恵み」という言葉は主ご自身ではなく、主に従った弟子たちの間で使われ始めたものでした。これはどういうことでしょう。恵みは聖霊による、ということです。聖霊が弟子たちに降臨したのは主の十字架の出来事よりも後のことです。主は恵みそのものですから自ら「恵み」という言を用いる必要はなかったのです。そして主の昇天後、聖霊により弟子たちに恵みが与えられたのです。

パウロは神の福音を語る時、決して人を喜ばせようとして語ったのではありません。私たちの心をお調べになる神を喜ばせるべく、語ったのです。神を喜ばせるとはどういうことでしょうか。ルカの福音書10章20節に「ただあなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」と書いてあります。天にある命の書に名を記される人が一人でも増えることを神は何よりお喜びになります。自分の喜びと神の喜びを別のものとするのではなく、自分の喜びを神の喜びと一致させなさい、というのがこの箇所の語る所です。この信仰は神と自分との縦ラインでの関係です。言わば「垂直次元の信仰」と言えます。この縦ラインが確固としていたからこそ、パウロは横ライン、即ち人同士の関係を大胆に構築することができたのです。この縦ラインがなかったら、パウロの伝道は「無駄であった」と総括されるものになったかもしれません。反対にこの縦ライン、「垂直次元の信仰」が確固としていれば何をなしても「無駄ではなかった」「恵みであった」と告白できるようになるのです。

実際の十字架も、まず地面に垂直に柱を立てて支柱とし、そこに横木を加えることで完成します。横木が土台となって縦木が立つということはありえません。教会の人間関係で悩んだり、伝道が上手く行かないと悩んだり、そういったことはすべて「水平次元の信仰」です。そこでの悩みはまず「垂直次元の信仰」を整えることで自ずと解決し、すべてが恵みへと変えられるのです。
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秋晴れの日が続いています。夜は少し寒くなりますが、散歩には良い気候です。空を見上げてお祈りしながら散歩するのが好きです。それを果たして「祈り」と呼んでいいのか分かりませんが。いずれにせよ、神様に思いを馳せながらブラブラと夜道を歩くのは幸せな時間です。運動不足の解消やダイエットにも、多少は役に立ちますしね。散歩だって、神様を見上げていれば決して「無駄ではなかった」時間となるのです。

来週からしばらく教会に行けないので、次の説教要約の更新は恐らく10月の末頃になってしまいます。あしからずご容赦くださいませ。ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/