9月20日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約9月20日「聖霊による共同体」
Iテサロニケ1:1~10

聖霊降臨はいわゆる「ペンテコステの出来事」の一回限りの出来事と思われがちです。確かにあの「ペンテコステの出来事」は一回限りの出来事ですが、聖霊降臨自体は「使徒の働き」を読んで行くと何度も起こっていることだと分かります。それによると、サマリヤやエペソ、アンティオケにも聖霊が降臨したという記述があります。

教会とは「主イエスを信じる者の集まり」ではありません。「え?」と思うかも知れませんが、正確に言えば教会は「聖霊により誕生した聖霊共同体」なのです。この共同体は世にある他の共同体とは根本的に性質が異なり、説教と聖餐による聖徒の交わりを特徴とします。世の共同体が人々の意志や共通点など、人の属性を基として形成されるのに対し、教会は人の属性を基とせず、説教と聖餐を媒介として神によって形成されているのです。

テサロニケ教会は、目で見ることのできない神の恵みを多いに見せられつつ成長した教会でした。その成長の秘訣はどこにあったのでしょうか。テサロニケ教会は、パウロ達が三週間、会堂で聖書について説教をして、その結果として成立した教会です。当時、異邦人たちはパウロ達を「世を騒がす者達」として迫害しました。にも関わらずパウロ達は「力と聖霊と強い確信」により説教し、それを受け取る側も「聖霊の喜びをもって御言を受け入れ」ました。この「力と聖霊と強い確信」と「聖霊の喜びをもって御言を受け入れること」この二つが教会の成長には欠かせないことです。私たちがいくら聖書を学び、研究してもこの二つに欠けていれば信仰は呼び起こされず、教会が成長することもありません。

しかしこの二つを保持することは当時、大変なことでした。この時代はカエサルの支配下の時代でしたから「カエサルは主なり」という告白が国によって強制され、「イエスは主なり」などと言えば首を切られることもありました。イエスを主と告白することは文字通り命がけであったのです。

主イエスを信じる信仰は「信心」や「信念」などという言葉で表現できるものではありません。それは「聖霊による賜物」です。自分で信じるのではなく、聖霊により信じるのです。聖霊に選ばれて、聖霊の力を得るからこそ、初めて信じることができるのです。ジョン=ウェスレーはこのことを「先行的恩寵」と呼びました。この恵みの根拠はどこにあるのでしょう。4節に「あなたがたは神に選ばれた者である」と欠いてあります。つまり、私たちが主イエスを愛するようになったより前から、私たちは神に愛され、神の選びのうちにあった、ということです。この選びが「聖霊による喜び」です。この喜びは「天の喜び」です。「人の喜び」とは根本的に違います。人間や、この世の出来事によって消し去ることのできない喜びです。

この喜びに満ちて、テサロニケ教会は信仰の実、愛の実をたっぷりと結び、広い地域で模範とされる教会にまで成長しました。信仰は自分の選びではなく、神の選びによって成立するもので、その喜びは何者にも消し去ることはできない。そしてその喜びこそが教会の原動力となるのです。

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昼間はそうでもなくても、朝晩は肌寒い季節になりました。僕は少し風邪をひいてしまいました。くしゃみが止まりません。今日の文章で誤字や脱字があったら、それは多分、書きながらくしゃみをしたからです。早く治してしまおうと思います。皆様も風邪にはどうか気をつけて。ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/