9月6日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈をしている場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約9月6日「失わない希望」
創世記50:1~26

今日で創世記の講解説教は最終回です。創世記最後の章、この50章はヤコブの葬儀と残された息子達の様子について記され、最後はヨセフの死で終わります。この章は創世記の結論であると同時に、次に続く出エジプト記の緒論、橋渡しとなっています。

人間は希望がなければ生きていけない、とよく言われます。しかし、世が与える希望はその場の状況や、時代による価値観の変化等によって簡単に失われてしまいます。しかし、聖書が与える希望、神が与える希望はそうではありません。ローマ書5:5でパウロが「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです」と述べている通りです。神に結びついた希望はどんなことがあっても失われることはない、と聖書は宣言しているのです。

今、ヤコブが死に、ヨセフは遺体の前で喪失感に苛まれ、涙を流しています。彼は医師達を呼んで、その遺体をミイラにするように命じました。ヤコブは40日かけてミイラにされました。エジプトのはヤコブのために70日間の喪に服しました。王であるパロが死んだときは72日間の喪に服するのが習わしでしたから、それに準ずる、国葬級の扱いであったと言えるでしょう。

ミイラ職人は魔術と結びついているとされていたのに、神に従うはずのヨセフがどうしてヤコブをミイラにしたのでしょう。それはヤコブを、アブラハムやイサクと同じ、カナンの地に葬らなくてはいけなかったからです。エジプトは暑いのでミイラにしなければ死体は2~3日で腐敗してしまい、カナンまで運ぶことができなかったのです。

ヨセフはヤコブをカナンの地に埋葬する許可をもらい、カナンに向けて出発しました。その旅にはエジプトの要人達と軍隊も同行しました。この点でも国葬級の扱いです。そしてカナンの地で7日間に渡って葬儀を執り行いました。そしてヤコブは遺言通り、マクペラの地にある先祖代々の墓地に埋葬されました。

ヨセフは父の葬儀をすべて終え、エジプトに無事に帰りました。ところが困ったことが起こりました。ヨセフの兄達がヨセフに対して不安を覚え始めたのです。今までは父が生きていたのでヨセフは我慢していたが、父が亡くなった今、いよいよ自分たちに対するヨセフの復讐が始まるのではないか、と兄達は恐れたのでした。以前に確かにヨセフと兄達は和解をしていたのにも関わらずです。兄達の心には和解の平安と確信がなかったのでした。そこで兄達は「兄弟は仲良くしろと父の遺言がある」とヨセフにウソをつきました。ヨセフはそれがウソであることは承知の上で、「もう恐れることはない。神が裁いて下さる」と兄達に優しく告げました。私たちも時に、イエス・キリストの仲介による、自分と神との和解の平安と確信を失ってしまうことがあります。「自分は本当に救われているのだろうか、神に愛されているのだろうか」と疑ってしまうことがあります。しかし常に神様は「恐れることはない」と答えて下さいます。

ヨセフは110歳で死に、エジプトの国葬を受け、ミイラになりました。12部族の民達はこの後、エジプトで苦難の時代を過ごしますが、その間、ヨセフのミイラを見ては「神が私たちを顧みて下さる」という希望を持ち続けたのでした。私たちも時に苦難を時を過ごしますが、十字架のイエスを見上げて「神が私たちを顧みて下さる」ということを忘れないようにしたいものです。

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お疲れさまでした。長かった創世記の講解説教も今日で終わりです。来週からは新約聖書の「テサロニケ人への手紙」の講解説教が始まります。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと引き継がれた希望を、初代教会の人々はどのように受け継いで行ったのか、がテーマになります。・・・と、牧師が話しておりました。僕にはよく分かりません。

ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/