8月23日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈を
している場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約8月23日「神が与えた目的に向かって歩む」
創世記49:13~15

人間は何のために生まれたのか。人間はこのように人生の意味と目的を問う存在です。この世には様々な生き物がいますが、自分の命の意味と目的を問うのは人間だけと言えます。しかしこのことが人間にとって苦難の一つでもあるのではないでしょうか。苦難と言えば、試練、病気、死などをイメージしますが、この「実存的な問い」というのも人間にとって確かに一つの苦難と言えます。

ヤコブは、死を迎える床で十二名の息子たちをルーツとする、十二部族の将来を予言しています。今日の箇所ではそのうち、ゼブルン、イッサカル、ダンの三人について預言しています。13節はゼブルンについてです。ゼブルンの与えられた領地は海辺に面していたので、ゼブルンを祖とする部族は海洋貿易によって富を得るようになりました。このゼブルンの領地は主イエスとも縁の深いものです。主イエスの育ったナザレはこのゼブルンの街であり、有名なガリラヤ伝道のガリラヤもゼブルンの領地でありました。

14節はイッサカルについて書かれています。イッサカルはたくましい肉体を持っていました。彼らは日本で言えば北海道のような広大な農地を与えられましたが、労働を好まず、休息を求めました。彼らは徹底的に怠惰な生活を求め、しまいにはカナンの地の奴隷になってしまいました。

15節はダンについて書かれています。「ダン」とは「裁く」「かばう」という意味です。彼らは同胞を裁く「裁き司」となりました。また彼らはゲリラ戦の勇士でもありました。

ユダ族はダン族にはなれず、ダン族もユダ族にはなれません。他のどの部族も他の部族にはなれません。私たちも、私は私であって、他の誰かのようにはなれません。私たちにはそれぞれ与えられた「領土」があり、意味と目的を持っています。これは運命論ではありません。神の祝福の道であり、人間の本質です。

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昨日今日と連続での説教要約更新です。それでもまだ一本分、遅れていますからね。それも早めにアップしたいと思います。それとコラムも書かないと。きゃぁ。神様、僕に文才の賜物を下さい、アーメン。
ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/