8月16日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈を
している場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約8月16日「一緒に喜ぶ」
ルカ15:1~7

私たちは喜んでいる人と一緒に喜ぶことがなかなかできないものです。できそうでできないものです。むしろ反対に、喜んでいる人の姿に、妬みの心を起こしてしまいさえします。それだけ人間というのは罪深いものなのです。

今日の箇所には「喜ぶ」という言がくり返されています。主イエスは「一緒に喜んで欲しい」と私たちに望んでいるのです。この喜びは「見出された喜び」と「見出した喜び」です。この時に主が語った例え話は「神はどんなお方か」を教えるものです。神様は決して「私に関心を向けなさい」と語っているのではありません。反対に「神があなたに関心を向けている」と告げているのです。

百匹の羊を持っている人が、そのうちの一匹を見失いました。いるべき羊がいなくなったのですから、普通なら大騒ぎになります。例えば修学旅行中にクラスメイトの一人がいなくなったら、他のクラスメイトは大騒ぎしてその一人を捜しますよね。しかしここで残された99匹の羊は、そのいなくなった1匹に関心を示すことがありませんでした。また、いなくなった1匹の方も、自分から群れに戻ろうとはしませんでした。羊たちはお互いに関心をもっていなかったのです。しかし、羊飼いだけは違いました。羊飼いだけはいなくなった1匹に関心を向けて行動を起こしています。この羊飼いの姿こそが神、主イエスの姿を現しています。私たちが互いに関心を持っていなくても、神様はいつも私たちに関心を持って下さっているのです。

教会とはどんな所でしょうか。教会は神様に関心を向けている人の集まりではありません。神様に関心を向けられている人の集まりです。神様の関心を身に受けて、神様に見出された人の集まりです。そこに上記の「見出された喜び」と「見出した喜び」があります。

主は取税人や罪人たちを受け入れて、彼らと共に食事をしました。この食卓は「見出された喜びの食卓」です。この食卓に与ることが「共に喜ぶ」ということです。この姿をみたパリサイ人や律法学者だちは一緒に喜ぶことができないばかりか、彼らを非難し、自分たちの「正しさ」を主張しました。

主はこのたとえを語る前に「○○しなければ私の弟子となることはできない」と三回も語りました。そして「まずすわって」と二回も強調しました。主の弟子となるとは、主と喜びの食卓を共にし、共に喜び、そして食卓を共にする者同士、関心を持ち合うということなのです。
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なかなか礼拝に参加することができず、久しぶりの更新になってしまいました。まだしばらく遅れがちの更新が続くと思いますが、どうかご容赦下さい。前回の更新の時は夏の暑さ真っ盛りの時期でしたが、今はずいぶんと過ごしやすくなってきました。気候の変化の激しい時期になっていますが、皆様おからだを壊しませんように。ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/