7月19日主日礼拝の説教要約です。
あくまで一信徒による要約ですので神学的に間違った解釈を
している場合もあり得ます。その点はご容赦いただきたく思います。
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説教要約7月19日「自己認識」
創世記47:1~12

自己認識の問題とは自己存在の問題であり、「自分とは何者であるか」という実存的な問いにより確立されるものです。これは長い間、人間が問い続けてきた哲学的・心理学的・神学的な課題です。クリスチャンはこの課題に取り組む過程を通して成長し、霊的洞察力や判断力を養っていきます。

エジプトに到着したヤコブはまず、パロと接見し、居住地について話し合わなければいけませんでした。ヨセフは父ヤコブとその家族がエジプトに到着したことをパロに報告し「今、ゴシェンの地におります」と強調しました。そして兄弟の中から5人を代表者としてパロと引き合わせました。ヨセフはその兄達に「パロは必ず職業を尋ねるから、『羊飼いです』と答えて下さい」と打ち合わせをしました。実際にパロと接見すると、本当にパロはそのように尋ねたので、兄達は打ち合わせ通り「羊飼いです」と答えました。その上「私たちの先祖もそうでした」と付け加えました。自分たちが根っからの羊飼いであることをパロの前に強調したのでした。

エジプトの社会では羊飼いは最も身分の低い職業であり、忌み嫌われていました。それなのに「羊飼いである」と強調したのは、自分たちの滞在しているゴシェンという土地が羊を飼うには非常に恵まれた土地であり、また都からも離れた田舎であったので雑婚やその他の誘惑を避けることができるので、その土地を自分たちの寄留地にしたかったからでした。ここで大切なのは兄達は「この地に寄留するために私たちは参りました」とパロに言っていて、決して「定住」とは言っていない点です。彼らはあくまで寄留者であり、神の時が来たらカナンの地に帰ることを確信していたのでした。

これが彼らの自己認識です。自分たちは「羊飼い」であり、「寄留者」であり、「神の民」である。これらは彼らが自分で決めた自らのあり方ではなく、神が定めた自らのあり方を追認しているのです。だからこそ彼らは迷うことなく力強く、世の最高権力者パロを前にしても自己を宣言することができたのです。

パロは彼らの言葉をよしとし、彼らは望み通りゴシェンの地に住むことになりました。ヤコブはヨセフに連れられてパロに接見し、パロを祝福しました。それは祭司としての祝福でした。ヤコブは「祭司」としての自己認識も持っていたのでした。それももちろんヤコブ自身が決めた認識ではなく、神が定めたヤコブのあり方の追認です。この祝福は世の権威と神の権威が相対した瞬間でありました。

ヤコブはパロに年齢を問われ、130歳と答え、苦難と哀しみの多い人生を振り返りました。しかし常に神の祝福を受けていたことを感謝しました。自分で生きた人生ではなく、神に生かされた人生であると告白しました。ヤコブは弱り、床についても杖を支えに神を最後まで礼拝しました。

私たちもヤコブのように、人々を祝福できる存在とされていることを忘れてはいけません。クリスチャンは万人祭司、一人一人が神から祭司とされているのですから、その自己認識を忘れてはいけません。神が「あなたは祭司である」というのですから、それを追認しなくてはなりません。自分が何者であるかは自分が決めることではありません。神が決めることです。その神の決定を追認する時、人は祝福され、神の栄光とともにある人生を送ることができるのです。

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これでようやく遅れていた説教要約の更新が予定通りのペースに戻りました。とはいえまた遅れたりすると思います。どうか広い心で見守って下さいませ。しかし近頃ものすごく暑いですね。でもヤコブや主イエスが生きていたあの辺の地域は砂漠ですから、きっともっと暑かったのでしょうね。クーラーも扇風機もないですしね。それを思うと、このくらいの暑さで音をあげてはいけないな、と思います。ではまたいずれ。主にありて。マロでした( ・ิω・ิ )/